法学部真坂教授  shu

Q大学法学部10号館106大教室、法学概論の授業、受講者は300人程度。授業開始から10分後、真坂教授が到着する。
「特に法には興味ないけど就職がカタいからというだけの理由で法学部を選んだ皆さん、初めまして真坂です。いやいやそれが悪いなんて言ってませんよ、人間の可能性は無限大ですからねぇ。かの有名な哲学者パスカルはこう言いました、『クレオパトラの鼻、それがもう少し低かったら、大地の全表面は変わっていたであろう』ってね、あっ今のはあんまり関係なかったですね、ははは。あれぇっ?もしかして皆さんちょっと緊張していらっしゃる?まぁそりゃあ大学に入って最初の授業ですからね、法学ってぇのがどんなもんかも分からない、右も左も分からない、方角さえも分からないってなもんですよね、あはははは、あれ? ん、うん、まぁ一口で言えば法学ってぇのは皆さんがご想像の通り、あの分厚い六法全書に書いてある法律を一条一条暗記していくもんなんですねぇ、そして皆さんがテレビでご覧の通り、裁判所に行って「異議あり!」なんて言いながら机をぶっ叩いてゴリアテに立ち向かうダビデよろしく立ち上がる練習なんかもするわけですね。ん?違う?あ、違うか、違いますね。法学ってぇのはそんなことよりもっと意義のあることをします、なんちゃって。……あれ、皆さんどうもアセンスオブヒューモアが足りないようですねぇ、まぁいいや。いいですか、現代の法学者における権威である真坂教授によれば、あ、これは私のことか、法と法律は別のものです。ドイツ語ならレヒトとゲゼッツ、フランス語ならドロワとロワ、イタリア語なら…まぁイタリア語はわかりませんが、そういう区別があるわけです。そうですね、分かりやす過ぎる例を挙げれば、六法全書に書いてあるのは法律ですよ。でもそれと法は違うわけです。すごーく厳密に言うと難しい話になってしまうんだけど、とりあえず法とはその法律が意味していること、その法律よりももっと原理的な、一種の考え方、思想と考えておけばよろしい。あれ、私が急に真面目な話を始めたから皆さんノートを取り始めましたね。ん、いや次の時間の予習でしたか?これは失礼、予習は大切ですからね。何の話でしたっけ、逆転裁判でしたか。あ、違いますね、法の話です。もっと考えてもらうために一つ質問をしましょう。えーっと、皆さんは人間ですか? ……あれぇっ、誰も反応しないってことは皆さんは人間じゃないんですかね。でもこの中のどなたも早く人間になりたーいとか、しっぽが生えてて頭に葉っぱが乗ってるような方はいらっしゃらないので、恐らく人間なのだと思います。六法をちょっと開いてみれば、民法の第1編はズバリ「人」という題になっていますね。じゃあその「人」の中でも皆さんはどんな「人」なのでしょうか。これはですね、大学一年生なら大半の方は未成年者なんですね。未成年者は法律上は子どもで、きちんとした判断をする能力がない人というカテゴリーでくくられています。昔は無能力者なんて呼ばれてたんですよ、じゃあ大人になったら能力者になれるのか、って思って子どもたちが大海賊を目指しかねないような名前ですよね。ただご安心を、むしろ未成年者の方が能力を与えられているんです。何しろ駅前で変なおばあさんに100万円する壺を買わされたとしても、ごめんなさい私未成年だったの、と言って保護者の同意を得ていない売買契約を取り消すことができるのです。でも喜んでいる場合ではありませんよ、これは未成年者はちゃんとした売買もできないほど判断能力がないから、特別な保護を与えられているということなのです。えっ、おれは判断能力があるですって?きっと誰かお思いになりましたよね。それはそうかもしれませんねぇ。なにしろ皆さんは投票すら政治的判断能力がないとかかんとか言われて出来ないわけですけど、皆さんの周りに居る20歳以上の大人たちが皆さんよりも優れた政治的判断能力を持っているってぇのは断言できますか? 逆にいえば皆さんは木鐸社の政治学術雑誌レヴァイアサンを毎号欠かさず読み、蝋山政道から辻清明、西尾勝という三世代の政治学者について論じる小学生より政治的判断能力が優れているといえますか?これらの問いにはウイと答える人もノンと答える人も居るし、イエスと答える人もノーと答える人も居るわけですね、そしてヤーと答える人も…あ、もう十分ですか?失礼。……にも関わらず、皆さんは画一的に、全員が、投票権を持たないってぇわけです。これは考えてみたら不思議なことですね。では、判断能力があるかテストをして決めたらどうでしょうか。テストに合格した人だけが投票できる、と。あるいは投票年齢をもっと低くしたらどうでしょうか。海外ではほとんどが18歳から成年として扱われることは皆さんもご存知でしょう。じゃあ日本は世界に先駆けて16歳にしちゃおう、とかね。まぁそうするとどうなるか、そうした方が良いかは皆さんがお考えになってくださいね、そんな難しいこと私にはわかんないし。えーっと何の話でしたっけ、妖怪人間ベムでしたっけ? あ、違いますか、というか知らないですよね。あぁ、未成年という話でした。つまり子どもということですけれども、子どもってぇと皆さんは何歳くらいを想像するんですかね。10歳くらいですか、それとも5,6歳? あるいは17,18? 中世までは今でいう子どもという概念は存在しておらず、いわゆる「小さい大人」として考えられていたという話は有名ですけれども、今では一応18歳未満くらいを子どもと考えるのが最大公約数的理解なんでしょうかねぇ、たださっき申し上げたように法律では20歳未満になっています。これもまぁ結婚すると云々とか色々あるわけですけれども、問題はですね、いつから子どもになるか、ということなんですねぇ。子どもが20回目の誕生日を迎えたときに成年になるというのはその通りですけれども、単純に、妊娠中の、いわゆる胎児ってぇのは、子どもですか? もっと言えば、それは人なんでしょうか?民法3条1項にはこう書いてあります。「私権の享有は、出生に始まる」つまり権利を持つのは生まれたときからだよ、生まれたあとその人は様々な法律的行為ができるよ、ってぇことです。もちろん先ほど申し上げたように大幅にそれを制限されてますけどね。さて、こいつぁ問題です。胎児を子どもだ、というのは日常的な会話でしょうが、法的に胎児が子どもだとすると、その子どもは不完全ながら法律行為ができるってぇことですからね! しかも、かの有名な刑法199条を御覧なさい。「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する。」あれぇっ!? ここにも「人」が出てきますね。仮に胎児を法的に子ども、と見なすと、胎児を殺すことは殺人罪になりますね。一方で、あまり知られていませんが、胎児を殺すと堕胎罪という罪になります。これは殺人より軽い罪ですので、ますます胎児と人の境界が問題になりますねぇ。これについては、一部露出説といって、胎児の体の一部でも外部に出ていればこれを人とみなして、これを殺した場合には殺人罪が適用されるというのがいわゆる判例、最高裁判所が判断したことなわけですねぇ。しかしね、一部だけ外に出ていれば人、ってどういうことなんですかねぇ。外にいようが中にいようが命を持っている者は人ではないんですかねぇ。2011年のアスガー・ファルハディというイラン人の監督の非常に優れた映画「別離」では、妊娠中の女性を押して流産させた、として裁判所に男が訴えられますが、これ当然のように殺人罪として処理されているわけですねぇ。ムスリムはそういうことなんですね。だから日本の考え方が当たり前というわけではないわけです。とはいえ、これが一番問題になるのは実は殺人ではなくて、中絶なんですね。堕胎罪を聞いたときに中絶を思い浮かべた方は鋭いですが、中絶って基本的には堕胎罪にあたるので、犯罪とされているんですね。じゃあ世間で行っている中絶、いわゆる「おろす」というやつですけれども、これは犯罪なのか?とお思いでしょうが、これには母体保護法という法律がまた別にありまして、妊娠21週と6日までなら堕胎罪が適用されないという法律があるんですねぇ。もちろんこれには条件がありますからね。一つ重要なものとして経済的理由による中絶が認められています。まぁこれはナチスの優生学とのつながりがある胡散臭い法律だったんですが、それについては割愛して、あ、これは「わりあい」とは読みませんよ、「かつあい」ですからね。この法学部真坂教授というメタテクストではこのような特権的行為ができるということを皆さん覚えておきましょう。まぁただこの中絶というのはあまり身近に感じたり深刻に考える人はあまり居ないかもしれませんが、これは海外では全く違うわけですねぇ。とりわけ子どもができるということを非常に重視するキリスト教の影響が強い国では、本当に重要な問題なわけです。アメリカでは、この中絶を巡る問題は、大統領選の一つの重要な争点になるほど重要です。大統領選挙期間に必ずこの問題について態度決定することを迫られます。キリスト教系保守層を取り込むためには「中絶なんて許せん!だめだだめだ!」、リベラルな層を取り込むためには「中絶は女性の選択の自由だ!」と言うわけ。アメリカでは州によって異なっていて、ただ結構最近まで中絶は犯罪だったという州が多いんですね。いいですか、犯罪ですよ。日本のような母体保護法みたいなのは一応あるけれど、その条件は中絶しないと母親の命が危険であるような例外的場合に限られているわけです。しかしまだ避妊の知識や技術が普及していない場合、あっそういえばアメリカでは避妊具を配ることすら禁止している場合が昔はほとんどでしたからねぇ。ちゃんと病院に行って、処方箋をもらわないと避妊具はもらえなかったわけです。キリスト教からすればセックスってのは子どもを産むためにするものなわけで、子どもは要らないけど愛の証としてセックスするなんてことはダメなわけです。とはいってもみんなセックスするわけですね。で、避妊具は入手できないわけ。今みたいに薬局、コンビニで手軽に買えないわけだから。そしたらどうなりますか? 経済的理由あるいはその他の理由で育てられなかったら中絶しないといけませんね。ここで困った。何しろ中絶は犯罪です。おおっぴらに病院に行って「中絶お願いします」なんて言ったら逮捕されて刑務所に入れられる危険があるわけです。一方、医者のほうも大変です。患者が求めてくる堕胎手術を行うと、犯罪なわけですから、そういうリスクをとらない。はいそうなるとどうなりますか。当然裏のビジネスとして中絶が出てくるわけです。そんでそういうことやる奴ってのは、医者は当然やりませんから、その辺の肉屋のおじさんとか車屋の兄ちゃんとかそういう人が生半可な知識で手術するわけですね、大金をもらって。で、堕胎手術というのは母体に非常な負担をかける危険な手術なわけで、それを病院でもない路地裏の汚い倉庫とかで素人がやるわけ、当然妊婦がすごい勢いで死ぬわけですね。そういう状況を改善しようと様々なウーマン・リブ運動が起こってくるわけ。「スリー・ウィメン」という映画がありますけれども、その第一話ではデミ・ムーアという女優が1950年代、つまり今お話したように中絶が犯罪であった時代に妊娠して中絶するまでを描いています。この映画では実際にモグリの医者に依頼するんですねぇ。第二話ではウーマン・リブが盛んな70年代が描かれていて、その雰囲気が違うのなんのって! もっと最近のジェイソン・ライトマン監督「JUNO」では、妊娠した16歳のジュノは気楽に中絶しようと病院に出かけていきますね。全然時代が違うってぇわけです。もう一つ有名な「ヴェラ・ドレイク」という映画も、50年代のイギリスの話ですが、中絶が違法であった時代の映画ですね。フランスもそうでしたし、大体どこも同じなんですね、この時代。一方、2007年のルーマニア映画の「4ヶ月、3週と2日」では、まぁこれも傑作なんですが、1980年代に至っても独裁政権のもと、中絶が違法である時代が描かれているんですねぇ。話を戻しますと、アメリカではこういう風に中絶を女性の選択の自由とみるか、中絶なんてのは殺人だ、とみるかの大きな論争が巻き起こってきたわけです。そんな中、ロー対ウェイドという事件がアメリカ連邦最高裁に出てくるわけですね。このローというのは実は仮名で、マコービーさんという人が原告なんですけれども、中絶を過度に制約しているテキサスの州法が合衆国憲法に違反するとして訴えた事例なんですね。ただこの訴訟は政治的なものでして、マコービーさんは中絶できれば別に訴訟なんてどうだってよかったわけですね。だから訴えたあとは弁護士さんが進めて、マコービーさんは一度も法廷には来ませんでした。それどころかこの訴訟の後にキリスト教原理主義に転向して中絶反対を声高に唱え始めるんですから、驚きですよねぇ。とりあえずこの訴訟では女性が妊娠の一定期間に妊娠中絶をすることは憲法上認められた権利だと判決が出たわけです。その後もいろいろ紆余曲折ありましたが、少なくともこれは法的には動いていません。現代のアメリカの女性たちに一定の中絶の選択肢があるのはこうした闘争のおかげなのです。重要なのはその期間の決め方です。これはこの後にケイシー判決というものがありまして、そこでいわれたのがviabilityなんですねぇ。ヴァイアビリティってぇのは、簡単にいえば胎児が、母体外に出たときに生存可能である状態のことを言います。だから、発育が完全でなくても、胎児が母体外に出て生きていける場合には、母親がこれを中絶する権利は制限されうるわけですね。ところがですねぇ、現在は医学が進歩しておりまして、相当の未熟児でも保育器などきちんと対処すれば生存することはできるわけですね。それどころか今や試験管ベイビーなんてのもあるくらいで、精子と卵子を人工的に受精させて子どもをつくる、なんてやってるわけです。これなんかは最初っから母体外で話を進めていて、後で母体内に戻すわけでして、これはviabilityといえるんでしょうかねぇ? そもそも生存可能であることがすなわち人間であるとは限らないわけです。しかしviabilityなんていう概念をつくっちゃったもんだから、まるでそれが人間の始まりかのように考えられる危険もあるわけですね。さらに、キリスト系保守派の人々はあの手この手で中絶を防ごうとするんですね。例えば中絶しようとする人には親や夫の同意を要件にするとか、一日の待機期間を置くとか、中絶のリスクを説明するとか、堕胎手術には補助金を支出しないとかですね。どれも大したことないじゃないか、とお思いかもしれませんが、これが大違いなんですね。まず親の同意要件は未成年にとっては非常に高いハードルですし、家庭内暴力のケースでは夫の同意要件は事実上不可能です。待機期間も、アメリカってぇのは広いですからね。車で一日かけて手術のできる設備の整った病院に来る人ってぇのがたくさん居るわけです。そういう人たちに一日の待機期間を設けると、その大変な旅路を二回往復させることになるわけですね。リスクの説明も、中絶のときの残酷な写真を持ち出したり、神の教えを延々と説いたりするわけです。で、そうした法律に対してプロ・チョイス派つまり女性の選択の権利を支持する人たちが法廷闘争に持ち込むということの繰り返しなわけです。すごいでしょう。もっと過激なのだと、中絶を行っている病院の前に押しかけて抗議運動をするとか、病院に訪れる女性をつかまえて糾弾するとか、果ては病院を爆破したり、医師を殺したりするテロまで発生しているわけですねぇ。こうした闘争は恐らくこれからもアメリカで続くと思いますが、重要なのは母親という存在と子どもという存在をどのように捉えるかという話ですねぇ。胎児ってぇのは人間としての子どもなのか、しかし子どもっていっても、その母親の子どもなわけですから、何も赤の他人の子どもにどうこうするってぇわけじゃない。宗教がからむのもありますが、大変難しい話ですねぇ。じゃあキリスト教が根付いていない日本では無関係かってぇと、実はそうでもないんですね。1950年代には年間100万人くらい中絶を行っていますし、今はそれよりは減っているとはいえ、数十万人が行っています。それにね、高度経済成長期には、今の経団連の前身である日本経営者団体連盟というところが将来の労働力の確保、という名目で中絶の抑制を提言して、実際に経済的理由による中絶を禁止する法案が国会に提出されるところまでいったんですねぇ。結局廃案になりましたが、経済的理由での中絶を禁止すると、母体に危険があるときや強姦などによる中絶しか認められなくなりますので、恐らく現在行われている中絶の90%以上が堕胎罪に該当することになるでしょうねぇ。皆さん、中絶を抑制する理由が労働力の確保ですよ。お国のために子どもを産め、ってなわけで、宗教観に基づくアメリカとはえらい違いだということですねぇ。そして現在では少子化が叫ばれており、少子化担当大臣なんてもんが居ます。その人が今年の2月にこう言ってます。ええと、年間20万人が妊娠中絶しているとされるが、少子化対策をやるのであればそこからやっていかないと。参院選後に党内の人口減少社会対策特別委員会で検討してもらうつもりだ。堕胎を禁止するだけじゃなくて、禁止する代わりに例えば養子縁組をあっせんするための法律をつくって、生まれた子供を社会で育てていける環境整備をしなきゃいけない。だそうです。いいですか皆さん、私はこれについて良い悪いは言いませんがね、あっ声の調子と顔でわかっちゃいますか? 皆さん鋭いなぁ、確かに僕はこういう意見に対してはこんな、こーんな顔をしたくなりますね。でもね、子どもに関する問題ってぇのはですね、その辺で遊んでいたり学校で勉強していたり、ここで私の平凡な講義を聞いている人たちのことだけではないんですね。そもそも子どもとして産まれてくるかどうか、産むのかどうか、そこから始まってるってぇわけなんです。そして実はそれに法が、民法とか刑法とかの法律の、まぁいってみればその後ろにあるところの法が関係しているってぇわけなんです。前半にちょっと言ったように、子どもってぇのも時代と共に変わる社会的な概念に過ぎません。人は子どもに生まれるのではない、子どもになるのだ、ってぇなわけなんですけど、いやいや、そもそも生まれる前に子どもってぇのは存在するのかね? 子どもじゃないとしたら何なのかね? そこは考えなくてもいいのかね? ってぇところにこの問題があるわけですな。さぁ、そろそろ話すネタがなくなってきたので、10分早いけど初回は終わりにしましょう。来週は、14世紀におけるトマス主義とアヴェロエス主義の対立を、トマス・アクィナスに対抗するパドヴァのマルシリウスの法観念を中心に、”Defensor pacis”を読みながら考えていきましょう……あ、間違えました、それは私の研究テーマでした。来週はまぁ法について概括的に論じます。さ、私はもう帰law、なんちゃって。え、何がギャグなのかわからないって? そりゃそうですよ、これこそ特権的なギャグなんですから。まったく、赤ちゃんじゃないんだからそれくらい分かっていただきたい。じゃあ私はほんとに幼児があるから帰りますよ。Au revoir!」

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