Quodlibet # 2 「聖餐」をめぐって ( 2 )―哲学者たちの聖餐 上 Yu Amin

 前回は前座の話が長くて切り上げてしまったけれど、今回は本題について書こうかなと思う。聖餐の最中に起こっているとされている「実体変化」の教義と、それをいろいろな事情で説明しようとした哲学者たちのお話である。この一見してニッチなテーマは、特に17世紀という時代とあいまって、「哲学とは何か」というべらぼうな問いにちょっとしたヒントを与えてくれるのではないかと最近僕は思っているのだ。
 さて、キリスト教の教義の中で「聖餐」とは、人類の救済のために犠牲になったキリストの肉体をあらわす「パン」と、同じくその血をあらわす「ぶどう酒」を信者が共食することである。これは、キリストの死と復活による救済の業を記念する儀式で、「ミサ」とはまさにこの儀式を指す。この儀式を通して、信徒がキリスト教会という、まさに共同「体」へと組み込まれるということは前回も述べた。
 みんなでなにかを神の肉に擬して食べるという「犠牲」の「擬制」みたいな発想自体は、ディオニュソスの祭儀やら、ハイヌウェレ型神話なんかと似たり寄ったりで別段珍しくはないかもしれない。けれどもキリスト教(カトリック)のユニークなのは、「実体変化」(または「化体説」) という教義をもつところだ。この説によると、聖餐の儀式中、司祭の聖別の言葉によって、ただのパンだったものが本当に「キリストの肉体」に変化し、ただのぶどう酒だったものが本当に「キリストの血」に変化するという。
 むろん、こんなことは説明しようがないわけだし、飲み食いしてるときはどうやったってパンとぶどう酒の味しかしないわけだから味覚的にも、また外見も変わらないので視覚的にも説明はつかない (ただ、オルガン愛好家の僕からは、のちに、ミサの中でこの「実体変化」は無理やり「聴覚的に」表現されるようになると付け加えておきたい。「実体変化」を主題とするオルガン曲の少なからぬものは、わずかに調律を狂わせて唸った音が出るストップ―代表的なものは “Voix céleste” 、その名も「天の声」なんて名前をしている―を活用して演奏され、いかにもな雰囲気を醸しつつ「実体変化」を演出するのだ) 。それゆえ、この教説は「信じる」ほかなく、説明は無用という時代も長く続くのだが、中世になると、この説明しようがない教義をわざわざ説明してあげましょう、なんていう馬鹿丁寧なスコラ学者たちが登場する。代表格はトマス=アクィナスである。トマスの『神学大全』では、実体変化においては、「キリストの体の実体 substantiaがパンの実体にとってかわる」とされる。この見解と説明原理はその後もほぼ継承され、1545年のトリエント公会議で公式見解とされるようになる。
 トマスをはじめとしたスコラ学者の多くがこの「現象」の説明に援用したのは、アラビア語経由でヨーロッパに逆輸入されたアリストテレスの形而上学の語彙だった。いわくこうである。ものには必然的で不可欠な「本質 substantia」(もともとのギリシア語では「それがなんであるか」みたいな意味だ。わかりやすいね。) と、そのものにとって必然的ではなく、付け加わったり変化したりする「性質」(これは「偶有性 accidentia」と呼ばれる) がある。水であれば、今風に言うなら「H2O」であることが本質で、塩や砂糖を含むのかとか色がついているかどうか、みたいなことは「偶有性」ってわけ。塩や砂糖を含んでなくても、色がついてなくともH2Oなら水といえるわけです。ここで、僕らのパンとぶどう酒にもあてはめてみたらこうなる。パンの味や形や色、におい (聖餐論の文脈では「形質」とか「外観 species」と呼ばれたりする) は「偶有性」である。けれど「実体変化」後も―あたりまえだけど―それらは変わっているとは言えない。しかし、「パン」は「実体変化」後には「キリストの肉体」に変わっちゃっていることになっている、つまり「本質」の方は変わっちゃっているのに「偶有性」である「外観」は変わらない、ということ。
 アリストテレスの語彙を借りて、パンはないのに、パンの外見 (色、におい、形…) だけが存在する(「実在的偶有性 accidentia realia」と呼ばれる)と説明されているけれど、僕らには刺激的なぐらい「シュール」だよね。パンの色だけがパンなしに残る…。まあ、少なからぬ中世人がこれで納得したということは重い事実だけれど。
 17世紀になると、「合理的」な発想の先駆けみたいな人たちが、「実在的偶有性」なんていう非合理的な発想を批判するようになる。そう、デカルトとかです。デカルトは、アリストテレス=スコラ的な説明原理を斥けて、もっと「科学的」な説明原理を導入するわけです。(デカルトの「科学者」としての側面はあまり知られていないが、そのあたりは小林道夫『デカルトの自然哲学』岩波書店、1996年を参照のこと)。


 デカルトは、『方法叙説』で自ら「天国へ導く啓示された真理は我々の理解力を越えている」とも言っているように、「神」の存在証明こそすれ、具体的な神学的問題に首を突っ込まないほうの人である。ところが、僕たちの関心の的である聖餐における「実体変化」の問題にはかなり関心を示している。例えば、メルセンヌ宛1630年11月25日の書簡では、『屈折光学』(ちなみにこれは『方法叙説』を「叙説」とする本論の一部をなす書物)の刊行の目的が「光と色の本性」を明らかにすることであると同時に「実体変化」後の「パンの白さが聖体において持続すること」の解明でもあるとしている(『デカルト全書簡集 第1巻』知泉書館、2012年)。

 デカルトの聖餐理解は、従来の「偶有的実在性」の否定からはじまる。本質が変化しているのにそれに付随しているはずの「偶有的実在性」だけが残るのは直観的にも科学的にもどう考えてもおかしい、と。そのかわりにつくりだす概念が「表面 superficies」。デカルトによると、パンの外観(色、味、におい…)はパンと空気の境界である「表面」と同義であり、パンが肉体に代わっても、その「容積 dimensiones」が変わらなければその表面も変わらない、だから実体変化の後もパンの「外観」は残ることになる(『デカルト著作集2』白水社、2001年、「第六反論」など)。

容積1のパンが容積1の肉体に変わったので表面は変わらない、表面が空気との境界となってわれわれの感覚に与える効果である「色」のような外観は変わらない、と。あの「シュール」な「パン無きパンの味」の代わりに、ある意味では数学的で、直観的にもそんなに違和感のなさそうな説明がとってかわっている。
 ただそれでも、これを一聴して僕たちがたまげてしまうのは、この説明が、「偶有的実在性」による説明に比べてどこが説得的になっているのか、といった疑問をもつからではなく、そもそも「実体変化後もパンの外観が存続する」という結論の方をデカルトが疑っていないからではないだろうか。それもそのはずで、まあデカルトには、「実体変化」を彼なりの仕方でどうにか説明しなければならない「事情」があったのだ。
 デカルトの考え方や生き方には往々にして、教会の公式教理は守っておけば異端扱いはされまい(地動説を事実上認める『世界論』の出版を差し控えたのは有名な話である)、旅先でも「現地の習慣や信仰に従っておく」のが無難だ、といった処世術が垣間見えるけれど、今回のケースもそうかもしれない。じじつ、「実体変化」をとりあげたのは、おそらくデカルト流の自然理解が、カトリックの公式教義に反するどころか、「実体変化」を従来のアリストテレス=スコラ主義的な説明よりも「うまく」説明できるのだ、ということを喧伝するためであったと言われている。そういう意味では、「実体変化 (とその後の外観の持続、という教義) を説明する」という「結論ありき」、なのである。方法的懐疑で知られるこの哲学者も、さまざまな事情、そしてその背景にある「教会」の権威と権力の大きさ、そういうものを無視するほどには自由ではなかった。話を一歩進めてしまえば、そもそも、哲学的な議論の多くも、そうした「事情」の要請で「結論」の方をひそかにさきに立てちゃってることの方が多いのではないか。もちろん事情は、社会的、時代的なものとは限らず、もっと個人的な事情もあるだろう。
 いずれにせよ、「実体変化」の説明、というテーマは、哲学史の巨人たちが、「結論」からいわば「逆算」して、思考を組み立てていることを分かりやすく明かしてくれる好例なのではないかと思う。デカルトの場合は、「教会」と上手く折り合うための処世術を身に着けるという事情、そしてにもかかわらず、スコラ的な言葉遣いを排除したいという事情が重なってこの主題を選ばせ、「容積が同じだから表面は変わらぬ」といった思考の筋道を描かせたのだろう。なんでこの「実体変化」の例が、わたしたちにとって「好例」なのか。いってしまえば、どんな概念だってある種の「事情」をかかえているのに、なぜ。それは、かつて絶対の権威だった「神学」の説明原理が失効しているから、その「おかしさ」と「結論ありき性」が僕らの目には際立つからだろう。その意味ではデカルトもトマスたちとやっていることは何ら変わらない。事情が多少違うだけで。
 デカルトに次いで、実体変化の問題をわざわざ自らの哲学で説明しようとした人がライプニッツだ。この人の場合は、「結論ありき性」はさらに際立ってくる。というのも、形式的にはカトリック信徒であり、少なくともそのように振る舞う必要のあったデカルトとは異なり、ライプニッツはプロテスタントなので、「実体変化」を奉じていないから。なのにライプニッツは「実体変化」を説明することになる。このあたりはまた次回に書くことにしよう。

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