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過去の感覚、あるいはデジャメヴュについて Ⅶ  Yu Amin

Ⅶ. 未来

 幻の過去の感覚、デジャメヴュは、ときに記憶の経年変化の予期せぬ結果であったり(イシグロの幻の日本像のように)、ときに集合的な記憶の意図的創出の結果であったり(「無意識」のような精神分析的操作概念や「社会契約」のような法的操作概念のように)するのであった。この感覚に導かれて新たな概念が誕生したり、この感覚に襲われていることに気づき心が変貌を遂げたり、あるいはこの感覚を創り上げ定着させようとするときに虚ろなものから実体をもった効果が出現してしまうことがあるように、デジャメヴュの感覚は未来における創造の先触れでもあったりする。ヘンリー・ジェイムズのあまり知られていない作品に『過去の感覚』(The Sense of the Past, 1917[『ヘンリー・ジェイムズ作品集6』上島建吉ほか訳、国書刊行会、2004年所収])という未完の中編がある。主人公のニューヨーカーの青年ラルフ・ペンドレルが、英国に住む遠縁の屋敷を受け継ぐことになりロンドンへ向かい、そこで彼と同名で自分と瓜二つの先祖ラルフ・ペンドレルの肖像を見つける。肖像は生気を帯び、二人のラルフが出会う。その後再び屋敷を訪れたラルフは自分がタイムスリップして祖先のラルフと入れ替わっていることに気づく。心理小説の名手がこの物語に挫折したのは、このとき現代に入れ替わりでループした祖先のラルフの意識をもまた青年ラルフが共有している、つまり彼が過去と現代を同時に経験するという当初の複雑な設定をうまく処理できなくなったからだと言われる。祖先の肖像に自分の生き写しを見たときに、その後実際に「過去」を生きて「感覚」することになる青年は、すでに幻の過去の感覚にとらわれてはいなかっただろうか。生きたはずのない19世紀を自分も生きていたのではないかと。そしてこの肖像は、実際に彼がそののち、20世紀と並行して19世紀を生きてしまうという逆説的な未来を予告するように挨拶する。この小説の開かれた結末は、あの肖像画のラルフのモデルが実はタイムスリップした青年なのでは、と読者に推測させてやまない。彼の感じたかもしれないデジャメヴュの感覚は、自分がこれから過去に生き自分の祖先になりかわってしまうという運命に、彼が生きていくことになる現在でもあり過去でもあるという全く新しい未来の時間性に、まだふさわしい名があてがわれていないことを告げている——バック・トゥー・ザ・フューチャー?従来の言葉が用意していた時制に対して、この来るべき経験はあまりにも過剰だが、この言葉と物との(「シニフィアンとシニフィエ」)の「懸隔」にこそ「革命家はその永続革命の夢を刻む」(ドゥルーズ)だろう。しかし、あの青年のようにこの折り曲げられた不可能な時間を生き、身をもって既存の時間を転覆し、新たな時間経験を創出するならば、自意識の仮借なき崩壊を招来してしまう。私とも祖先ともつかぬ自己同一性の底が抜けてしまう深淵に引きずり込まれるようにして。

2019年11月10日
Lost Generationのいた街で


P. S.

 まさにこの原稿を仕上げている今日、『蝶々夫人』を観劇しに赴いたバスティーユのオペラ座で、ホールにあるのを前々から見知っていたものの通りすぎていた壁面装飾が « Laudator temporis » と名付けられていることに気づいた。イタリア人造形作家Ivan Moscatelliの手になる彩色ガラスでできたこの世界地図には、各地の現地時間を表示する時計が象嵌されている。この標題では « acti »という語句は省かれ、「過ぎ去った時間」と明記はされない。しかしこの標題はあの詩句をほのめかすことで、単に小綺麗なステンドグラス様の地図を通して、(日付変更線の上にでも住んでいない限り)時計の上では自分たちが後にした過去の時間をいま現在生きている人たちが必ずいるという自明な事実をそれとなく伝えている。それ自体は何の変哲もない世界地図に過ぎないこのモニュメント(物)は、ホラティウスの詩句(言葉)と取り合わせられることによって、無味乾燥であまりにも日常的な地形的現実から未聞の地理的想像力を解放しようとしている——午前10時のミシシッピにいるあなたが、7時間前の午前10時のパリと15時間前の午前10時の東京で過ごしたかもしれない反実仮想の経験に身に覚えのないリアリティを感じてしまうようなことを想像するとき、それをまぎれもない幻の過去の、デジャメヴュの感覚と名付けたい誘惑に駆られないではおれない。

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