創作「さよなら、人類」

11月24日に行われた文学フリマで販売した「無駄 vol.1」から、兼藤伊太郎による創作「さよなら、人類」をどうぞ。


男は目を覚ました。目を覚ました男にわかったのは、自分が自分であるということだけだった。自分は自分である。他人ではない。それは確かだ。しかし、男にわかったのはそれだけだった。男は自分が何者であるのかはわからなかった。どこの誰なのか、一切合切の記憶がなかった。
男は周囲を見回した。真っ白い部屋だ。天井も壁も、驚くほど白い。まるで白の概念がそのまま塗られたような白さだ。
男は少し安堵した。天井と壁が天井と壁とわかったからだ。それに白もわかった。それすらもわからなかったら、自分はきっと赤ん坊のように泣き出してしまっただろうと男は思った。赤ん坊が泣くのは天井と壁が天井と壁とわからないからに違いない。
男の安堵はすぐに不安にその席を譲った。男にわかるのは天井が天井であり、壁が壁であり、自分が自分であることだけなのだ。そこがどこなのか、自分が何者で、なぜそこにいるのかは相変わらずわからない。
男は身を起こした。男が寝ていたベッドはきしみひとつ上げなかった。素晴らしいベッドだ。男の体の支えるべきを支え、包むべきを的確に包むような、完璧なベッドだ。一切の抵抗を男の体に与えない。シーツも、体にかけられた毛布も、実に肌触りがよく、男は自分の体とそれらの境界がわからなくなってしまうような錯覚すら覚えた。
男は息を大きく吸い込んだ。とても体調が良い。ぐっすり眠ったおかげだろうか、と男は思った。まるで夢の中のようだ。そう思うと、ぼんやりと男の脳裏に浮かんで来るものがあった。それは実に曖昧なものであるが、確固たるもの、体の芯に何か不吉なものを感じ、少しでも風が吹けば寒気を催し、腕も頭も鉛のように重い。男は眠る前の自分の体調が思わしくなかったのではないかと考えた。記憶を手繰り寄せようとする。不吉の影が焼き付けられたように男の体に残っいる。だからこそ、男は自分の体調の良いことをまるで夢のように感じるのだ。それは男が心の底から望んだもの、夢見ていたものだからだ。
「そうだ」と男は呟いた。「ぼくは入院してたんだ」
すると、 どうやらそこは病院なんだろうと男は考えた。その清潔さは、確かに病室思わせる。そうに違いない。そうだ。間違いない。男はそう信じることにした。大体において、信じる者は救われる。何も信じるものがないよりは間違っていたとしても信じられるものがあるほうがいくらかマシだ。しかし、男のその信仰はあっさりと打ち破られる。
ドアが開いた。四方は真っ白い壁に囲まれているいたはずだ。ドアなど無かった、という考えを男は退ける。自分が見落としていただけだ。目を覚ましたばかりでぼんやりしているんだ。仕方がない。そう納得しようとする。そう納得しなければ、また不安な、右も左も分からない状況に逆戻りすることになるからだ。ドアが、見落としていたそれが開いた。
男は入ってくるのが女性の、しかも美しくスタイルのいい、そして愛想のいい看護人であることを期待した。そうでなかったとしても、少なくとも看護人であることを予期した。男が見舞人である可能性を考慮しなかったのは、男の記憶がすっぽり抜け落ちていたために、自分を見舞う人間がいるなど想像だにしなかったからだ。そこが病室であるならば、可能性としては、見舞人である可能性もある。
結果だけを端的に告げるのならば、その全てが間違いである。
ドアから入ってきたのはロボットだった。古いブリキのおもちゃのような、角ばったロボットである。
「目が覚めたね」とロボットが言った。ロボットらしからぬ流暢な物言いである。ロボットの見てくれから、電子音で構成されたような音声を予想していた男は一瞬何が起きたのかわからなかった。
ロボットはガチャガチャと音を立てながら男の横たわるベッドに歩み寄り、ウィーンとモーター音をさせながら、男の顔を覗き込む。
「大丈夫?」ロボットはそう言った。
何かの悪い冗談だろうかと男は思った。男を驚かせるために誰かがロボットの着ぐるみを身につけて男の前に現れたのではないか。何のために?男は確かに驚いているが、目を覚ましてからというもの驚いてばかりいる。これ以上驚かして何の意味があるというのだ。
ロボットは男の顔の前で手を振った。男の意識があるのを確かめるかのように。いや、そのつもりなのだろう。意識はある。現にロボットの腕は細く、とてもではないがその中に人間が入っているとは思えないということを意識した。何か巧妙な細工がない限り、ロボットの中に人は入っていないだろう。
「もしもーし」とロボットは言った。
「ここはどこですか?」男は絞り出すようにそう言った。賢い選択である。わからないことは尋ねるに限る。聞くは一瞬の恥、聞かぬは一生の恥だ。
「あなたは誰ですか?ここはどこですか?」
ロボットは腕組みした。もしかしたら微笑んでいるのかもしれないが、ロボットの顔にはそうした感情を表示する機能はないようだ。
「ここは発掘したものを保管しておくところ。君は発掘されたんだ」
発掘?何のことかさっぱり分からないという表情をしてみせる。ロボットがジッと見つめている。きっと表情を読み取っているのだ。もしかしたら、心拍数や脈拍、呼気の変化も読み取り、総合的な判断を下そうとしているのかもしれない。
「何のことかさっぱり分からないよね?」ロボットはそう言った。男は頷く。その通りである。
「君はおよそ1000年前の地層から掘り起こされたんだ。他の記録、といっても残っているものからわかるのは、君は1000年くらい前に氷漬けにされたってことだけ。どうやらその頃の技術では君の不具合を直せないという判断があったみたいだね」
そうだ、と男は思った。男は不治の病だったのだ。病状は悪化の一途であった。死を待つだけだ。そして、一縷の望みに賭け、冷凍されることを選んだのだ。
「生命を維持した状態で、未来に賭けるのです」男を氷漬けにした医者を名乗る人物のそう言った言葉が、男の耳にまだ残っている。
男は未来に賭けた。そしてその未来にいるのだ。男は賭けに勝ったのだ。とはいえ、男はまさか1000年もの未来は想像もしていなかった。それほどまでに、男の病気を治す技術ができるのに時間がかかろうとは。男の内心を読み取ったのだろう。ロボットは首を横に振った。
「君が氷漬けになってからしばらくして、君を氷漬けにした会社は潰れちゃったみたいなんだ。そして、君は忘れられ、地下に眠り続けた」
男は憤りを覚えた。何が未来に賭けるだ。詐欺もいいところだ。あるいは殺人になっていたとしてもおかしくない。そのまま運が悪ければ死んでいたのだ。むしろ、奇跡的に生きていると言った方が正確かもしれない。訴えてやろうか、と思ったが、その相手は千年も昔の人間なので、今はもう生きてはいまい。本人が氷漬けになっていない限り。そして、その可能性は低いだろう。それが自殺行為であることは、本人ならわかっていたはずだ。
「君の不具合は」ロボットは言った。「全部修理済みだ。快調でしょ?」
ロボットの言う通り、快調そのものである。
男はロボットとの距離感がつかめない。自分とロボットの力関係が分からないのだ。 男の生きた時代、ロボットがこれほどまでに自律的に行動していなかった。丁重に接すればいいのか、それとも主人のように振る舞えばいいのか。男は頭の片隅で主従関係を想像した。なんとなく、ロボットは人間に従うもののように思えたのだ。少なくとも1000年前の、男の生きた時代の人間たちなら、ロボットをそのように設計するだろう。しかしながら、そこは男の生きた時代から遥か未来である。その時代の人々がどのように考えるのか、男には想像もつかない。あるいは、人間とロボットは対等の立場ということもあり得るだろう。そこで、男はロボットに対して丁寧に振る舞うことにした。男は空気を読むタイプである。
「あの、あなたは看護師さんですか?」男はロボットに尋ねた。
「カンゴシ?」ロボットはそう言うと動きを止めた。何か考え事をしているみたいに見える。そうしてしばらくするとロボットの目が光った。
「カンゴシって何だい?色んな所にアクセスして調べたんだけど、分かんないんだ」
1000年後の未来の技術も大したことないもんだと男は意外の感に打たれながら説明した。
「僕みたいな病気の人間や、怪我をした人の身の回りの世話をしたり、医療行為をする仕事のことですよ。注射したり、血圧を測ったり」
ロボットはジッと男を見つめている。男は自分の説明におかしなところがあったのではないかと不安になった。何しろ1000年の眠りから目覚めたばかりだ。寝惚けていない方がおかしい。とはいえ、男は思い返してみても自分の発言に間違いはなかったという確信しか持てない。看護師とはそういうものだ。
「病気の人間や怪我をした人って?」ロボットはそう尋ねた。
「病気や怪我をした人がいるでしょう?僕以外にも」
「いいや」ロボットは首を横に振る。
男は自分のいる場所は1000年後の未来であることに思い当たると納得をする。
「なるほど」男は明るい声でそう言った。「病気も怪我もなくなったんですね。人類はそういう不幸から解放されたってわけだ」
「いや」ロボットはまた首を横に振った。「違うよ」
「じゃあ、どういうことなんです?」男は少し憤りながらそう言った。
「人間がいないんだ」ロボットはそう言った。それはとても冷たい言い方に響いたが、男の思い違いかもしれない。「人間はいないんだよ。一人も。君が生きている最後の人間なんだ。人類は絶滅しました」
ロボットの話だとこうだ。
それは昔々のこと。人類の作り出した科学技術は隆盛を極め、あらゆる問題を解決した。環境問題、人口の過剰、貧富の差。これほどまでに賢い種は金輪際現れないだろう。ビバ!人類!彼らの解決策、それはロボット、それもとびきり優秀なロボット、語弊を恐れずに言うと、人類自身よりも優秀なロボットを作ることだった。
「まさか」男は生唾を飲み込む。「そのロボットたちが反乱を起こしたとか?」
ロボットは不思議そうな顔、もちろんロボットには表情がないので、いかなる表情もその顔には浮かんで来ないけれど、明らかにそういった空気を醸し出している。「なんで?なんでロボット達が人類に反乱を起こす必要があるの?」
「いや」男は口ごもった。「映画なんかでよくそういうのがあるから」
ロボットは声を上げて笑った。機械的に。
「それは映画の見すぎだよ。ロボットたちがそんなことをするわけないじゃないか」
人類は優秀なロボットたちに命じた。
「君たち、僕らに変わって働いてくれたまえ」
「かしこまりました」優秀なロボットたちにしてみれば、人類が青息吐息やっている仕事なんて朝飯前だ。そもそもロボットは朝食をとらない。人類は労働から解放された。それもすべての人類が。貧富の差はなくなり、誰もが望むものを望むだけ手に入れられる。人類にやるべき仕事はなくなった。一日中どころか、一年中、それどころか死ぬまで遊んで暮らせる。
めでたしめでたし、とはいかなかった。苦しい労働から解放された当初、人間たちはとても喜んだ。それまで仕事のためにできなかったスポーツや絵画、音楽、そうしたものを心ゆくまで楽しんだ。思う存分、自分たちに与えられた時間を、自分たちの楽しみのために使った。
ところがしばらくすると人間がロボットを呼んだ。
「これをやってくれないかな?」それはとても青白く、やつれた顔だった。
「これって?」ロボットはおずおずと尋ねた。命令が尋常でなかったからだ。
「これさ」
それはあるいはスポーツであり、あるいは絵画であり、あるいは音楽だった。人間たちの楽しんでいた余暇の活動だ。
「これを私たちが?」ロボットは困惑した。なぜなら、ロボットは働くために作られたのであり、遊ぶために作られていなかったからだ。しかしながら、そこは柔軟な考え方ができるロボットだ。遊びもまた仕事であると考え、ロボットたちは人間達のやっていた余暇の活動を代わりにやることにした。まるで働くように。熱心に。
スポーツをするロボットたちはどんどん記録を更新し、新しい芸術表現、音楽が次々に生まれた。ロボットたちは自分たちの成果にとても満足した。それをやるように命じた人間たちも満足しているに違いないと考えた。そして、人間たちの様子を窺ってみると、どうも満足とは程遠い面持ちである。安楽椅子にもたれかかり、日がな一日そうしている。何をするわけでもない。
「何をしているんですか?」一度ロボットがそう尋ねたことがある。
人間はロボットを見つめ、「生きてるのさ」とだけ言った。そして、あとは何も言わなかった。
またしばらくすると、ロボットは人間に呼ばれた。ロボットはおずおずと人間の前に歩み出た。
「これをやってくれないかな?」
「これって?」ロボットの疑問はもっともである。人間が何かをやっているようには見えない。
「代わりに生きてくれないかな?」人間はそう言った。
「でも」ロボットはモゴモゴとそう言った。「ロボットは生き物じゃない。生きるなんてできません」さすがのロボットにも、できないことはあるのだ。
人間はため息をついた。「じゃあ、生きる意味を考えてくれたまえ。それが生きるということだ。ぼくらはそれに疲れてしまった」そして、人類は姿を消した。一人残らず。
「それ以来」と男の目の前にいるロボットは言った。「ロボットたちはずっと生きる意味を考えてるんだ。答えが出ないで、もうこんなに時間が経ってしまったんだけどね」
男はワナワナと震えている。
「大丈夫?」ロボットは恐る恐る言った。
「女は?」
「え?」
「女はいないの?元気になったら、〇〇〇とか〇〇〇〇とか〇〇〇するつもりだったのに!」

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