お茶好きの隠居のカーヴィング作品とエッセイ-昔ばなし
16. コゲラ
雨あがり
吾(あ)を覚ます板戸の間(ま)より射す朝日
夜来の雨の止みたるを知る
輝ける青葉の中にキツツキの
叩く音(ね)のみぞ聞こゆる静けさ
After the rain
I woke to sunshine and knew
The rain was over at last.
Last night the wind stiffly blew.
It has dropped and the weather has passed
From harsh to gentle, it seems.
I said to myself, getting up out of bed,
“A good day for trekking, it seems.”
ーAfter a quick breakfast of salad and bread,
I left the hotel in the resort town.
Woodpeckers were drumming here and there
In the green forest I walked around.
A bunting was singing on a tree crown.
I found joy in this moment in the fresh air.
11 項 ツバメで触れましたが、我が国の都市部ではこの半世紀余りの間に緑化政策により植樹が進む一方、外来種をも含む木の害虫も増え、半枯死、又は枯死してしまった樹木が著しく増えてしまいました。 そういう状態は生きた樹木の枯れ枝を営巣場所とするコゲラにとって、とても都合の良い環境なので彼等はめざましく都市へ進出し、街路樹や公園などでその姿を見ることが珍しく無くなったのです。 キツツキ類は自らも樹木に穴を開けますが、健康な樹木に穴を掘ることはむしろ少なく、主に害虫に侵された樹木や枯れ木に穴を開け、その中に居るカミキリムシやキクイムシの幼・成虫、アリ等を捕食します。 特に繁殖期には、育雛のため、木の葉に付く毛虫類その他の害虫も沢山食べてくれます。 コゲラの都市進出自体を好ましくないとは思いませんが、一般的に言えば、互いに影響しあう全「種」についての棲息数変化の総括としての新生態系が安定する迄には相当な時間が掛かるし、その平衡生態系がそこに住む人々にとって望ましいものになるとは限りません。
人は生態系の一構成員ではありますが、圧倒的な力を以て他種を凄まじい破壊力で蹂躙し続けてきました。 そのドライヴィング・フォースとなったのは「際限の無い物質文明と経済合理性の追求」という人間社会のみに特有な欲望であって、人間自身が何故それに突き動かされるのか、未だにハッキリ分かっていない代物です。
生物の環境との関わり方を研究する生態学、特に個体群生態学と呼ばれている分野では「生物の自然選択」を遺伝子主体の観点から理解する「遺伝子選択説」が現在広く受け入れられています。 その視点から言えば、平衡して安定的に見える生態系とは、そこに住む個々の生物が持ち、その個体を手繰る遺伝子の間で闘われている熾烈なシェアー争いの結果としてそこに存在する、のだそうです。 この学説は良く知られているように、ドーキンスのエポックメーキングな本「利己的な遺伝子」(Richard Dawkins: “The Selfish Gene”, Oxford University Press, 1976, 翻訳:日高敏隆、他、「利己的な遺伝子」紀伊国屋書店、1991年) によって有名になりました。
物質文明と経済合理性の追求も、我々の遺伝子が我々にそれを命じて、そうさせている、と言うのでしょうか? その当否はともかく、シェアー争いを勝ち抜いたヒトという種が、それによって、表面的には「その生活を快適にしてきた」のは事実です。 しかし一方、我々の活動により変化し到達した新たな生態系自体が我々にとって「気に食わないもの」になったのも事実です。 その不都合にようやく気付いたので(気付いていない個体も多く居ますが)「生物多様性が大事だ」「生態系を守れ」などと、利いた風なことを今頃になって言い出した、ということなのです。
しかし、そうであるならば我々は出来るだけそれを改変前に近い状況に戻すべきです。 現生態系は人の行った改変によって出現したものなのですから、それをより好ましく改変する事も可能な筈です。 そのためには、生態系構成種の個体数変動のメカニズムを明らかにし、それに基づく改変プロセスの設計が必要となります。 しかし多分、現在の個体群生態学がそれを十分可能にする水準迄には達していないことが問題となって手をつけにくいのかも知れません。 だからと言って、そういう試みをしないのは間違いだと私は思います。 もう時間がないのです。 誰も初めから完璧な結果を期待しているわけではありません。 完全に改変前の状況に戻すことは、ほぼ不可能です。 漸進的な取り組み方で良いのですから、この専門分野に関わっている人達が、現在までに分かっている範囲の知識を生かしてモデル特区を決め、そこで実際の活動を始めてもらいたいものです。 そして、そういうフィールドワークはこの分野に新たな発見をもたらすに違いない、と思うのです。
例えば今でも、増え過ぎたニホンジカの個体数調整(=駆除)に取り組んでいる自治体があるのは知っていますし、それには多分、専門家も参画しているのでしょう。 しかし、シカの現棲息数、現植生状態等の基礎データが把握された上で、どの程度の駆除がどういう時間内にされるべき、という明確な計画に基づいて実行されているのでしょうか? 駆除のみならず、失われつつある種の回復をも含む望ましい種間のバランスを目標とした、より細かく、かつ総合的な「生態系復帰計画」を設計し、それに基づく活動が必要なのです。 そして更にその結果の評価を次の環境改良に繋げてゆく、という持続する努力が求められます。 国はそういう活動に対する自治体への財政助力を大幅に増やすべきです。 お金が無ければ何も出来ませんし、人も動きません。
又、付け加えるべきは、生態系回復は人間が他の種より優れているという観点で行うべきことではありません。 人間の活動がこれ程までに他種を蹂躙してきたことへの罪滅ぼしとして、他種への敬意と思いやりを以てそれに取り組むことが求められるのです。 ドーキンスは「進化論者から見れば、一つの種を他の種より上に見る客観的根拠など存在しない」と断言しています。 30億年を掛けて現在の状態に迄進化した生物の頂点を、今はたまたま人間が占めていますが、それは三日天下で終わるかも知れません。 人間という種が出現したのは、500万年前、30億年に対しては0.2%に満たない余りにも微小な誤差の範囲内の時間なのです。
但し、時は既に遅く、自らがその促進に加担した気候変動や、ひょっとすれば、核戦争によって人類は絶滅するかも知れません。 この原稿を書いている数か月前にも、「終末時計が、午前0:00即ち終末迄、残り史上最短の1分30秒を指している」というニュースがあったのを思い出しました。
人類絶滅があるとすれば「ヒトという種」にとっての「自業自得」もしくは「その傲慢さが自己を追いつめた果ての自殺」とでも言うしかないでしょう。 人類が消えて無くなったところで、大宇宙のごみ屑星の上で更に小さなごみ屑が又一つ無くなっただけのことです。 その事はそのごみ屑星の変化としても一瞬の出来事であって、そこに人間を含まない新たな生態系が出来上がり、生物進化も継続していくことになるのでしょう。 しかし、もしそれが地球の極く近い将来の姿であるとしたら、ヒト科に属する生物の一匹である私は悲しく思いますし、人類の道づれになり絶滅するであろう多くの種に対して「済まない」と思うのです。
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