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睡蓮

 どうしようもない焦燥感が胸から溢れ出した。無論覚悟の上で行ったはずではあるものの、本当の過ちを犯した時は、すぐにそれとわかるものだ。


 絵の中へ引き込まれてしまったのだ。同じ部屋に同じ画家が同じ池を書いた別の絵があって、そっちは随分大きかったけれど、絵の具が半分ぐらい剥げてしまっていたし、なんだかぼやけていた。しかし、この絵はついさっきまで筆を入れられていたように瑞々しかった。なんて綺麗だろうと思ったのだ。この純潔を、誰にも汚さないでほしいと思ったのだ。そして、俺が汚したいと思ったのだ。半分は地肌の見えたあの絵だって立派に飾られている。爪の先を艶やかに膨らんだ桃色に差し込み、剥がした。


 爪の間に挟まった絵の具の欠片を素早く回収して辺りを見回す。幸いにも閉館間近であったこともあり、部屋の人はまばらだった。学芸員も別の方を見ていたようだ。それでも、この場から一刻も早く逃げ出したいという気持ちはとめどなく膨らんでゆく。不審に思われてもいい、呼び止められないぐらいの早歩きをして、素早く美術館を出た。


 外は雨が降っていたが、怖くて電車には乗れない。歩いていく。歩いていく。汗と雨で欠片が溶けてしまうような気がしたので、途中でハンカチに包んだ。


 上野を出て不忍池に差し掛かる。タイツを履いたおっさんが、外国人と一緒にカップの酒を開けている。かと思えば、小綺麗な服装の男二人と女二人が終電の過ぎるのを待ってチューハイを飲んでいる。俺はその隣を素早く通り過ぎていく。ここで、俺は一つの奇妙な現象に気がついた。何十回かに一回、足の感触のしないことがある。進めてはいるのだが、確かな足というものがふっと消えることがある。


 この道程に行く先はない。ここではないどこかにいくということだけが暫時の目的である。俺はつまるところ流れてゆくだけであって、その先は俺には考える必要がない。


 上皇が住むという御所の隣を抜ける。国立競技場を遠目に見る。足の消えるのは十回に一回になり、数回に一回になっていく。


 渋谷に流れ着く頃には、俺はもう完全に人間ではなくなっていた。しかし、 渋谷に着いたことに対しては、奇妙な安心感を得ていた。ここでは誰も俺のことなど見ないはずだ。俺は暫くぶりに平穏を得た。この交差点では、お互いにお互いを避けあっていて、いわば、関わらないようにするという一点でのみ関係を持っている。だからこそ、いろんなものがごちゃ混ぜになる。


 雨に濡れた歩道に傘が映って花が開いていた。いろいろな色が渾然一体としてぼやけている。俺は、そこでようやく罪の償い方に気がついた。交差点を流れながら、俺はハンカチをゆっくりと開いていった。そして交差点の中心に行き当たった時、桃色の欠片を落とした。睡蓮の花が雑踏の中にゆっくりと開いてゆく。かつて絵だったものとこの世界との境界がぼやけていくのを、交差点の中心で見守っていた。


 そこに、警官たちがやってきた。俺の体をがしと掴み、なんてことをしたんだ、と喧騒に負けない馬鹿でかい声で俺の体を震わせる。俺の体を、である。俺は泣いた。雨が頬を濡らすのに負けないぐらい、とめどなく泣いた。TUTAYAの電光掲示板は万人を平等に照らしている。画面の中では、濃い化粧をしたキャスターが、上野で起きた凶悪な事件を滑らかに解説していた。

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