小市民の知的生産の遍歴 その2
転機は独立と共に訪れた。2007年頃の話。
独立したことが大きく影響したわけでもないのだが、ちょうど同じ頃書店をふらついていて目にした雑誌が趣味の文具箱。
美しいペンの数々に、形から入る小市民は一発でロックオンされる。
しかし、同時に我にかえる瞬間が訪れるのも小市民である。
「例えば高級万年筆を買ったとして、それで何を書くか?」
この当たり前かつ本質的な問いかけに明確な答えも出ないまま、独立した記念と勝手に自分を納得させてペリカンのM800(だったと思う)を購入した。
今、Amazonで値段を見てのけぞったが、当時は5万円くらいだったような。
何を書くかという本質的な問いには答えられていないが、何に書くかは比較的簡単に答えが出た。
その頃、ちょうど輸入ノートがブームになりかけていた。モレスキンを筆頭にロディアとか、あとは忘れた。これらの紙に万年筆でアイデアでもメモすれば、かなりいい感じなんじゃね、という感じである。
しかし、こうした構想はほぼ瓦解する。
流石に高級万年筆を持っていくのは気が引けるので、ということで別途購入したのがRamyのサファリ。このスケルトンのやつは使い勝手も良く、外出時のお供に確定。ついでに、赤字でも書きたいと思い、赤の軸も購入して二本持ちしていた。
となると、M800の使い道がない。仕方なく日記でも書こうかとモレスキンのデイリープランナーを買ってそこにこそこそ書き物をしたり、ここで復活京大式カードに読んだ本の情報を書き出して管理したりというときに使うことにした。
一方、メモをとろうという意欲はこの頃が一番高かった。
何を勘違いしたかロディアのNo11(一番小さいノートパッド)を持ち歩き、地下鉄のホームで思いついたことをメモするなんて恥ずかしいことを臆面なくやっていた時期でもあった。
大して予定もないのに紙の手帳も持つようになり、その頃は毎年年末になると銀座伊東屋に行ってモレスキンの1日1ページのダイアリーとクオヴァディスの手帳を買うのがお約束だった。
こうした生活が3-4年続いたか。
そんなある時、ふとしたことに気づく。
書いたものの保管場所がない。
当たり前だが保管スペースは有限で、大した意味もなく書き溜めたブツをどうするか、という問題が切実なものとなってきた。
それにしても、世の中のコレクターと呼ばれる方には保管場所の確保をしっかりしているという点で尊敬の念を隠せない。
と同時に、仕事内容にも変化が出てきた。この辺りは分かりづらいが、万年筆で悠長に書いているよりも、ゲルタイプのボールペンでささっと書き留めることの求められる仕事が増えてきた。
こうなると、もうダメである。
さらに、サファリも立て続けにインク漏れをするようになったりと、万年筆を使う頻度が急激に落ちたのが、ちょうどコロナ前である。
こうして、今手元には前述のM800をはじめとして、父の遺品も含めた結構値の張りそうな万年筆が5本ほどと、使いきれていないインクボトルが4本残っている。
これらを使う日はやってくるのだろうか。
そんなことを思いながら、いわゆるアナログでの知的生産の時代は幕を閉じようとしているのである。
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