見出し画像

ハウルの動く城 歩くことと家族の形成

「ハウルの動く城」は、公開時から人気を博し、観客動員数では「千と千尋の神隠し」に続いて2位になった。その一方で、批評はかなり厳しく、「ストーリー、とくに後半のストーリーがわかりにくい」、「盛り上がりに欠ける」、「分からないからつまらない」など、映画の評価としては過去最低だった。

確かに、見ていると楽しいけれど、映画全体を通して何を言いたいのかわからない。ストーリーを思い出すのが難しいほどだし、たくさんの謎がある。
ソフィーがおばあさんになったり、若返ったりする理由。
城の扉にある四色のボードと外の空間の関係。戦いの意味。
ハウルは誰と戦い、何のために戦っているのか。
なぜ城が動くのか。等々。

そうした中で一貫しているのは、「歩く」というテーマだろう。歩くことが、ハウルとソフィーの恋愛を成就させ、全ての混乱を収束させる力になる。

恋愛から(疑似)家族の形成へ

「ハウルの動く城」の最も基本的な物語は、ソフィーとハウルの恋愛を中心にしている。そして、最後になると家族が形成される。
その愛が達成される過程で、恋愛の三角関係が導入されることに注目しよう。

A. 恋愛の三角関係

まず、ソフィー、ハウル、荒れ地の魔女の三角関係
魔女は常にハウルの心臓を得ようとしている。心臓、つまりハートとは、愛のこと
魔女は老婆になってからでさえ城の心臓といえるカルシファーを奪い取りる。
しかし、最後はその心臓をソフィーに返す。

もう一つは、ハウル、ソフィー、かかしのカブの三角関係
カブは、時にはソフィーの援助者となり、彼女を助ける。しかし、最後までソフィーから愛されることはない。
結末では、隣国の王子の姿に戻り、自分の国に戻るように、告げられれる。

ここで注意したいことは、恋愛は第三者を排除すること。三角関係の中で、一人は排除される。

B. 家族愛

その反対に、家族愛は排他的ではなく、第三者を受け入れ、より強固になる可能性もある。

「ハウルの動く城」が普通の恋愛物語と違うのは、ソフィーとハウルが結ばれると同時に、愛による疑似家族集団(三世代家族)ができあがる過程が描かれていることにある。

荒れ地の魔女(おばあさん)
ソフィーとハウル(夫婦)
マルクル(子ども)
犬のヒン(ペット)
カルシファー(守り神)
この疑似家族は、血縁関係ではなく、愛によって結びついている。

血の繋がりのないこの疑似家族は、ソフィー本来の家族とは対照的な集団になっている。
血の繋がった家族の側を見ていくと、父は既になく、義理の母はソフィーをかわいがろうともしない。物語の後半では、サリマンの使いとなり、ソフィーを騙したりもする。
妹のレティーはカフェの人気者で、少しは姉のことを心配しているようでもあるが、「本当に帽子屋なんてやりたいの?」と問い詰めたりする。
ここには血縁(義理も含め)による繋がりはあっても、温かい人間関係はない

かかしのカブに関して言えば、疑似家族に含まれてもいい。しかし、彼は隣の国の王子に姿に戻った後も、やはりソフィーを愛している。そのために、恋愛の三角関係が残り、家族集団の中に入ることはできない。

結局、「ハウルの動く城」の最も基本的な展開は、ソフィーとハウルの恋愛をベースにしながら、愛による疑似家族が形成される物語だと考えられる。

ちなみに、疑似家族の問題は、2018年のカンヌ映画祭で最高賞であるパルムドールを受賞した、是枝裕和監督の『万引き家族』でも扱われている。

動く城とハウル

ハウルの城とは何だろう?

城は確かな目的もなく、荒れ地を移動する。動力はカルシファー。内部はちらかり放題で、ソフィーは掃除婦として住み込む。

A. カルシファー

まず注目したいのは、動力のカルシファー。
火の悪魔は、ハウルとの契約によって暖炉に縛り付けられ、動力源として働かされている。
カルシファーは、契約を解き、自由になりたいと、しばしば口にする。

その契約の謎は、物語の後半で明らかにされる。
ハウルが子どものころ、流星にとらえ、彼はそれを呑み込んだ。すると、心臓がハウルの胸から出てしまう。それが、ハウルとカルシファーの契約の瞬間。
アニメの中ではっきりとは描かれていないが、燃える心臓をカルシファーが包み込んでいる。あるいは、カルシファーはハウルの心臓だと考えることもできる。
このように考えると、ハウルの心臓は肉体から分離し、外部化されていることがわかってくる。

B. 城の四色の出入り口

ハウルとカルシファーの関係は、城とカルシファーの関係と対応している。動く城は、心を失ったハウルの混乱した状態を具現化しているのだ。

次に、城の出入り口について考えてみよう。
ドアには4色の円盤がかかっていて、異なった空間につながっている。

緑 ー 荒れ地 (星の湖を含む)
赤 ー 首都キングズベリー
青 ー 港町 
黒 ー ハウルしか知らない謎の空間

王宮でサリマンと対決した後、ハウルは魔法によって引っ越しをする。その時、円盤の色も手直しされる。
黄 ー ソフィーの住んでいた町 (室内にも部屋が一つ増え、ソフィーの帽子屋の仕事部屋ができる。)
緑 ー ハウルの隠れ家(水車小屋のある秘密の花園)

C. ハウルの3つの名前

こうした多次元空間の中で、ハウルは別の名前を持っている
首都キングズベリーでは、ペンドラゴン。
港町では、ジェンキンス。
それ以外の場所では、ハウル。

なぜ一つの空間に止まることなく、いくつもの名前を持っているのだろう?
アニメの中では、「自由に生きるのに必要なだけの名前」を持っている、と説明される。
その言葉には二つの意味がある。
一つは、一カ所に固定されず、時と場合に応じて違う自分である自由。
もう一つは、恐ろしい敵(荒れ地の魔女、サリマン)から逃げるための自由。

D. 逃げまわるハウル

逃げるという点は、動く城の内部と関係がある。
「スタイリッシュで、美しくなければ生きている意味がない」と叫ぶハウルだが、実は臆病で、荒れ地の魔女から逃げるためにいろいろな物をためこみ、家の中がゴミ屋敷のようになっている。

サリマンからの呼び出しのときも、恐くて行けないので、ソフィーに代わりに行ってくれと頼む。
ソフィーへの愛の自覚が生まれ、守る者ができたから戦うと言う前のハウルは、外見ばかりにとらわれ、逃げているばかりいる存在
時には黒い色の空間に飛び立って戦うが、何のためなのかわからない。

このように考えると、複数の名前、多次元空間、城の内部の混乱には共通点があることがわかってくる。それらのことは、ハウルが逃げてばかりいる弱い存在であることを示している。

ソフィーの変身

「ハウルの動く城」の原作、ダイアナ・ウィン・ジョーンズの『魔法使いハウルと火の悪魔』で中で、老婆の姿に変えられたソフィーが、時々若い姿に戻ることはない。ふとした瞬間に若い姿に変身するのは、宮崎監督の創作である。

ソフィーの姿の変化の理由はどこにあるのだろう?

荒地の魔女に呪いをかけられたとき、ソフィーは、自分で呪いの解き方を発見しなければならないと言われた。としたら、若い姿は呪いが解けた時だということになる。言い換えれば、魔女から自由になる瞬間

ハウルは、自由になるためにたくさんの名前を使い分ける。その際、回転盤の色によって、行き先が異なる空間で違う名前になる。従って、彼に関する変化は意識的な操作によっている。

それに対して、ソフィーの変身は無意識的に行われる。眠っているときだったり、サリマンの前だったり、彼女の心の状態によって姿が変わる。
二人の違いは、ハウルの変身が意識的な行為により、ソフィーの変身は無意識的に行われるというところにある。

最後にソフィーは元の姿に戻るのだが、呪いの解き方を自分で発見するというエピソードは存在しない。物語の進展に従って、呪いは自然に解けるように見える。

ソフィーが意図的にしたことは何かと言えば、自分の行動の選択である。実際、ソフィーは様々な役割をこなす。
城の掃除婦として、部屋の中を整理する。
母親として、サリマンと対決する。
城の保護者として、カルシファーを暖炉から引き離する。その結果、城はばらばらになるが、一枚の板として残る。

城が1枚の板になったことは、ハウルの混沌とした状態をすっきりさせることにつながる。彼は単純化あるいは一元化され、弱い存在ではなくなる。
その時に心を取り戻したハウルは「体が重い」と言う。それに対して、ソフィーも、「心って重いの。」と応える。
ここにはもう混乱も、多次元の空間も、多様な名前もない。逃げる必要もなくなり、多次元の空間も、複数の名前も、変身も必要なくなる。

歩くこと

「ハウルの動く城」の中では、「歩くこと」と「飛ぶこと」が対立している。

A. 飛ぶこと

宮崎監督は飛行機が好きなこともあり、ジブリ・アニメでは飛行が開放感を表現することがよくある。

ハウルが飛ぶのは、闇の空間に入ったときで、そこで彼は常に敵と戦っている。しかし、敵が誰で、何のために戦っているのかわからない。心を失っているハウルが空中を飛ぶのは、意味のない戦いのためなのだ。

ソフィーとの愛を確認した後のハウルは、「ようやく守らなければならない者ができたんだ。君だ。」と言う。しかし、この時でさえ、敵がサリマンなのか、隣の国なのかはっきりしない。誰と、何のために戦っているのかわからない。

B. 歩くこと

それに対して、歩くことには、2つの意味がある。

まず、心を外部化したハウルの分身である城
この城は足を持ち、荒れ地を歩き回る。そして、最後には転げるように走り、分解してしまう。

これに対して、ソフィーと、彼女に心を寄せるときのハウルの歩行は、二人の愛を実現させ、疑似家族を形成する大切な動きになる。

ソフィーとハウルが出会った最初、追っ手に負われた二人は空に飛び上がり、カフェのテラスへと向かう。その時、二人は「同じ方向」に向かって空中を歩く
この場面は、アニメの冒頭に置かれ、強い印象を残す。

次に歩くのは、魔女によって老婆に変えられたソフィーが、家を出、荒れ地に向かって山を登るシーン。
この時、ソフィーは人から見られないところに行くという、逃げる気持ちしか持っていない。しかし、苦労して歩いたおかげで、ハウルの城に行き着くことができる。

城の中で、ソフィーは内部を掃除する。そのために、おまじないの力が弱くなり、パニックに陥ったハウルは、緑色のねばねばで体を覆われてしまう。
ソフィーはそんな状態のハウルを背負って階段を登りながら、弱いハウルに向かい、「歩いて」と励ます

その後、ソフィーはハウルの代わりに、サリマンに会いに王宮に向かう。
老婆のソフィーと荒れ地の魔女が王宮前の広場を歩き、階段を登るシーンは、宮崎監督がもっとも力を入れて描いた場面だという。
二人はいがみ合いながら階段を登る。その時、競争するようでありながら、並んで、「同じ方向」に向かって歩く
荒れ地の魔女がソフィーたちの疑似家族の一員となる最初のきっかけが、「同じ方向」に歩く行為である

歩く最後のシーンは、秘密の庭で敵に攻撃され、逃げるソフィーに向かって、ハウルが「走れ、足を動かせ。」とソフィーに促すところ
この時のハウルは、ソフィーへの愛を確信し、守る者ができたから戦うんだという、強い人間になっている。

このように「ハウルの動く城」の中にはたくさんの歩くシーンがあり、多くの場合、同じ方向に向かって歩く。その積み重ねを通して、愛によって結ばれた家族集団が形成される。

C. 同じ方向に歩くこと

ソフィーは最初、妹のレティーから、「本当に帽子屋をやりたいの」と問い詰められてもはっきりと答えられない、優柔不断な少女だった。
しかし、老婆になり、家を出て、山道を歩いた後では、自分の意志で掃除婦となることを決める。そして、ハウルから誰がそんなことを決めたんだと言われても、自分が決めたとはっきりと答えることができるようになっている。

荒れ地の魔女は、いつも籠に乗っていて、ほとんど歩くことはできない。しかし、王宮の前では、籠から降り、ソフィーと並んで歩く。このことが、ハウルのハートを求める二人のライヴァルを近づけ、荒れ地の魔女がソフィーたちの「おばあちゃん」になることを可能にした。

ハウルが空中を歩くときには、必ずソフィーの横で、同じ方向を向いている。これは、二人の愛の実現へ向けての動きに違いない。

このように考えたとき、「歩くこと」は「ハウルの動く城」の推進力になっていることが理解できる。同じ方向に歩くことで、愛が実現し、愛による家族ができあがるのだ。

最後の場面では、ハウルの城が復元され、空を飛んでいく。
城の庭は、ソフィーが最初に幸福を感じた、星の海の草原の一部のようにも見える。ここでは、飛ぶことが戦いではなくなり、三世代家族の幸せな暮らしを象徴している

歩くことと飛ぶことの対立が解消し、「動く城」 が飛ぶシーンで終わる。そのことは、何と戦っているのかもわからず、怪物の姿で血まみれになっていたハウルが、自由で平和に飛ぶようになったことを暗示している。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?