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かぐや姫の物語 自由と自然 思いやり型の映像表現

高畑勲監督が2014年に発表した「かぐや姫の物語」は、スタジオジブリの作品としては、まったくヒットしなかった。
同じ年に公開された宮崎駿監督の「風立ちぬ」が810万人(興行収益120億円)だったのに対して、「かぐや姫の物語」は185万人(25億円)だったと言われている。

フランスで公開された時には、芸術性が優れているという点で評価が高く、日本でも一部からは優れたアニメとして認められている。しかし、人気は出なかった。その理由はどこにあるのだろうか。

不死と生命

「かぐや姫の物語」は『竹取物語』の物語をほぼ忠実に再現していると言われることが多い。実際、竹藪で見つかった小さな子どもが成長し、帝からの求愛を受けながら、最後は月の迎えに連れられて昇天していくあらすじは、原作通りだといえる。

しかし、平安時代前期に成立した『竹取物語』が伝えようとしている最も重要な部分は、描かれていない。それは、かぐや姫から不死の薬を与えられた帝が、それを富士山の頂上で焼かせてしまう結末である。翁も媼も不死の薬を飲まない。

では、なぜ不死を望まないのか。

不死の世界である月に住む人々は、美しくはあるが、感情がない。かぐや姫は、地上にいる間に、帝に対する恋心や、育ての親に対する情愛を知り、人や物に対する思いを愛しむ気持ちを持つようになる。羽衣を身に纏うと、そうした人間的な感情を失ってしまう。不死になることと感情を失うことは一つのことだという設定が、『竹取物語』の核を形作っているのである。

だからこそ、かぐや姫は、月が美と不死の国、つまり全てが永遠に続く理想の国であると知りながら、そこに戻りたくなどない、年老いる翁と媼のお世話をしたいと、翁に打ち明ける。
帝も翁も媼も不死の薬を飲まない。そのことは、日本的な感性では、月よりもこの世を愛することを暗示している。

日本では、平安時代から、死後に極楽浄土で魂の救いを得るよりも、苦しみの多いこの世で、喜怒哀楽を感じることを好んできた。神仏に祈る際にも、現実における家内安全とか日々の平穏を願った。
『竹取物語』における不死の薬は、そうした日本人の現実感覚を示している。

高畑勲監督も『竹取物語』を、理想よりも現実を愛する視点で読んでいる。そのことは、次の発言から推測することができる。

原作に書いてあるとおり、月は清浄無垢で悩みや苦しみがないかもしれないけれど、豊かな色彩も満ちあふれる生命もない。もしかぐや姫が、月で、地上の鳥虫けもの草木花、それから水のことを知ったら、そして人の喜怒哀楽や愛の不思議さに感づいたら、地球に憧れて、行ってそこで生きてみたくなるのは当然じゃないかと。

では、なぜ不死の薬のエピソードを省略したのか。

現在私たちが知っているかぐや姫の物語でも、不死の薬の話は出て来ない
その理由は、私たちが合理的・科学主義的な時代に生きていて、現実を超えた永遠の世界があるとは考えないからである。
理想世界はむしろ空想的で、想像力が生み出す夢の中にしか存在しない。
従って、あえて不死の薬を取り上げ、それを否定する必要はない。

高畑監督は、彼のかぐや姫物語解釈のポイントを、なぜ姫は月から地上に降ろされたのか、そのために彼女はどのような「罪」を犯したのかという点に置く。

監督が考えたその答えは、物語全体の彼の理解の中ですでに示されている。
姫の罪とは、「地球に憧れたこと」である
アニメの最後の部分で、一度地球に下された女性が月に戻り、記憶は失っている中で歌を歌うという場面がある。その歌を耳にしたかぐや姫は、生命の息づく地球に行ってみたいと思う。
その思いのために、彼女は地球下りという「罰」を受ける。

恋愛 捨丸の存在

21世紀のかぐや姫物語において、現実を超えた永遠の世界は重要性を持たず、大切なのは現実である。その現実の中で、高畑監督は、自然と恋愛に焦点を当てる。
その両者をつなぐものとして、捨丸という人物を創作した。

捨丸は、かぐや姫が幼い頃に出会った頼りがいのある兄的存在であり、物語の最後で宮廷を飛び出し再開した時には、恋愛の対象となる。
姫が月にいるときに憧れた、自然と愛。それらを通して感じる、生きているという実感。
捨丸とのエピソードは、従って、「かぐや姫の物語」の中で大きなウエイトを占めることになる。

しかし、「かぐや姫の物語」が原作をできるかぎり忠実に再現しようとすると、創作のエピソードを大きくしすぎることもできない。そこに無理が生じたことも否めない。

その上、恋愛感情を激しくする手段として、小説ではしばしば三角関係が用いられてるために、姫と捨丸が再会して愛を語る場面で、あえて捨丸の妻と子どもを存在させ、観客に彼等が不倫の関係にあると知らせる。
残念なことに、この場面に説得力はない。

『竹取物語』でかぐや姫が恋心を抱くのは、帝である。最初強引だった帝は、心の重要さに気づき、姫との歌を交わすようになる。そして最後に、姫は帝に不死の薬とともに、痛切な別れの気持ちを告げる和歌を届ける。

捨丸という人物を創作するよりも、帝の変化が姫に恋の心を教えたとする方が、物語に説得力があったに違いない。

自由

アニメの中でかぐや姫がもっとも強く表現するのは、自由への希求である。

自然の中で自由に育った姫が宮廷に送られると、束縛の連続である。
田舎の家では優しかった翁が、貴族の装束を着け、とにかく結婚を押しつける。教育係の女官、相模は、田舎育ちの娘を高貴の姫君にしつけるため、型苦しい宮廷の規則でがんじがらめにする。

姫を宮中にお披露目する時、招待された客達は、彼女を無視して酔っ払い、果ては出自を侮辱する言葉を口にする。
求婚にきた男達5人は、誰も彼女を本当に愛しているわけではなく、単なる飾りの一つを求めているにすぎない。

帝に至っては、無理矢理姫を抱きすくめ、自分が言えばどんな女も喜んで従うなどという男性中心的な言葉を吐いて、平気でいる。

このように、宮廷はかぐや姫にとって息苦しい束縛の空間だった。
だからこそ、彼女は強く自由を求め、自然を模した媼の庭で息抜きをし、時に館を逃れて、自然の中に戻って行く

物語の大半を占めるこうした場面は、この映画の中心的な思想が「自由」であることを物語っている。
姫は束縛を逃れ、自由を求める。

2014年に公開された「かぐや姫の物語」がヒットしなかった理由の一つが、ここにあると考えられる。
終戦後、封建的な社会の崩壊が進み、その一方で自由は常に叫ばれてきた。その気持ちは21世紀の現在も同じことだろう。
しかし、束縛を嫌い、自由を主張することの意味が、2000年の前後で変わっている。
高畑監督は、1935年に生まれ、ジャック・プレベールの詩を愛し、東大仏文を卒業した。彼が感じる自由への希求に同調できる世代は、20世紀で終わってしまったのはないだろうか。

21世紀の現在、束縛からの解放を主張する自由が、幸福に直結するほど単純ではないことを、多くの人は知っている。
もちろん、束縛からの自由を願っている人が数多くいる。しかし、社会的な規範が以前よりも弱まっている現在、単純な束縛対自由の対立に基づいた自由への主張が、多くの心を強く動かす力にはなりえない。

自然

物語は人間にとって大きな力を持っている。物語に人間は感動し、その力に動かされる。

21世紀に入り、私たちを動かす物語は、自然への愛ではないだろうか。
そのことを示す興味深い例が、宮崎駿監督の「となりのトトロ」である。

高畑監督自身、「地上の鳥虫けもの草木花、それから水」や「人の喜怒哀楽や愛の不思議さ」を、かぐや姫が月から地球へとやってきた理由として語っている。
その視点から見直すと、このアニメは、「となりのトトロ」同様、自然の美を描いているとも感じられる。

宮崎監督は細密な絵で、高畑監督は余白を活かし線を動かす映像を使って、自然の生命感を表した。

束縛対自由の物語ではなく、地球の生命力の物語を語った方が、21世紀のかぐや姫は幸せだったのではないだろうか。

動く線

「かぐや姫の物語」の映像表現は、「動く線」を最大限に活かした作品だといえる。
ディズニー・アニメの現実的な映像とは反対に、手書きの絵の雰囲気を最大限に活かしている。

高畑監督は、「かぐや姫の物語」での映像表現を、「思いやり型」と呼んでいる。

「思いやり型」とは何か? 監督は次のように説明する。

「かぐや姫の物語」は、「自分(観客)のドキドキ一辺倒ではなく、他者(登場人物)へのハラハラや笑いを呼び起こす。見る人に判断の余地を残す。作品という密室に人を閉じ込めるのではなく、現実と風が吹き通う、そういう映画。

ディズニーのアニメなどは、陰影を付け、立体感があり、現実世界を再現を目指している。

ジブリ作品でも、「となりのトトロ」から「もののけ姫」まで、自然の描写は素晴らしい。
そうした現実を忠実に再現する方向にある表現は、監督によれば、「思い入れ型」。
空間を全て描き込み、自分がホンモノであると自己主張するペインティング。

宮崎駿監督は、イギリスのラファエロ前派の絵画を見て、その細密な表現には適わないと思い、それまでの現実再現的な表現をやめ、「崖の上のポニョ」の表現に向かったと、どこかで告白している。

「思いやり型」を突き詰めたのが、「かぐや姫の物語」。

高畑勲監督は、「思いやり型」の表現について、こんな風にも言う。

私はホンモノではありませんが、なんとか線でホンモノを写し取ろうとしたものです。どうかこれをよすがにして、この後ろにあるホンモノを想像してくださいね。

「かぐや姫の物語」で使わるスケッチやドローイングを前にすると、見る人は、絵の背後に、描き手が描きたかったものを読み取ろう、想像しようという気持ちを働かせる。想像力が働き、記憶が呼び起こされる
とりわけ日常の風景は、誰もが知っているのだから、全てを描かず、省略し、暗示にとどめればいい。

「かぐや姫の物語」の映像表現では、線が途切れていたり、太かったり細かったり、塗り残しがあったりする。そうしたクロッキー風の映像が流れることで、人間だけではなく、建物や自然にも生の実感が生み出される
風が通り過ぎ、草花が揺れる、自然の実感。

こうした動く線の映像表現に関して、高畑監督は次のように期待する。

みんなの記憶の中の最上の自然が思い起こされ、それでやわらかく包み込んでほしい。

「かぐや姫の物語」が私たちに強く働きかける力を持つとすれば、その多くの部分はこの言葉に込められている。

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