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先生と豚⑨

 夜、銀行の受付というのは退屈だった。下手に座っていると眠気が襲ってくるため、常に栄養ドリンクを用意して置かなければならない。今夜担当の男は数度この任についたがその度に外の警備にあたっている後輩が羨ましく思えた。唯一の救いはコーヒーが飲み放題なところか。
男の頭部は初老の気配が表れて後退した黒髪に白いものが混じって灰色になっていた。短く刈り込んだそれを掻いて落ちてきそうになる瞼を叱咤する。
(いかん……)
本格的に眠気が込み上げてきた。男は首を乱暴に振る。次いで時計を見た。
――一時四十五分。
(まだこんな時間か……)
 交代まであと数時間あった。
 勘弁してくれ、と思ったとき電話が突然鳴った。
おう、と思わず男は声を上げた。慌てて受話器を手に取る。
「夜分、すいません。実はご相談したいことがありまして、いま宜しいですか」
受話器から聞こえてきた声はやけにくぐもっていて聞き取りにくかった。
こんな時間になんです、と男は明らかに不機嫌な声で応対する。
実のところ眠りへの誘いを絶ち切った電話の主に感謝さえしていたのだが、それは悟られたくなかった。
「すいません。こんな遅くに聞くことでもないんですが、口座作り方を教えて頂きたいんです……お願い出来ますか?」
その相手が言うには明日までに会社の名義で口座を作らなければならならず、困っているのだそうだ。相手は電話越しにも恐縮していることが分かるほど低姿勢だった。
「恥ずかしながら私、口座を作ったことがなくて……。今まで郵便局でなんとかなっていたんですよ」
はあ、と初老の男は答えた。
いつの間にか相手の話を一方的に聞かされている。
そのことに男は気づく様子もなく、むしろ男はいい眠気覚ましになって有難いとまで考えていた。ただ、相手の声がくぐもっていたため三分の一は聞き漏らしていたが概要が分かれば相槌も打てるというものだ。
相手にはなかなか込み入った事情があるらしく、話は更に続いた。
「最近は株の変動が激しくて、そのせいで上司も動かざるを得なかったんです。ほら、銀行って一千万円までは保証してくれるといいますから、上司も――と言うか会社が危険を避けようとしたんでしょうね」
だんだんと相手の口調はくだけて軽い調子になっていた。
「ああ、確かに最近のは酷いですねぇ。私なんかは預金が元々少ないから気楽なもんだが、企業は目を剥いていますね。銀行員も取り引きだなんだと最近特に慌ただしくて」
そうでしょうね、と相手は答えた。
しばしの間、そうして世間話に花を咲かせた後、男は口座を作る際に必要なものを教えてやり窓口は混むから早めに行けと助言する。相手は丁寧に礼を述べ、再度有難うございましたと言うと電話を切った。
すっかり眠気の覚めた男が受話器を置いてふと時計に目をやると十五分ほど過ぎていた。つい話し込んでしまったと反省し、今度は監視カメラのモニターに視線を向ける。
当然の如く、どこにも異常は見当たらなかった。
忘れ物を取りにきたという行員の姿もいまはカメラの外にいるのか、映っていない。
「本当に退屈な仕事だな」
初老の男は思わず苦笑し、ひとつ伸びをした。

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