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先生と豚14

「……なんだと」
紅林は柿崎に指し示された乱歩全集に目を落とした。
 こんなもののために自分は警察のお世話になったのか。そう思うと怒りと感じると同時に、妙にやるせない気持ちになった。
「確かに俺は、手術の費用を払えたけど。三億だぞ。くそっ」
 取り分は一割の約束だった。
 全体からすれば少なかったが金額が金額だけに、一割だけでも手術費用を払っても働き手が紅林しかいない家計は今までよりぐっと楽になる。紅林は少しの不満はあったが、逆らえる立場にあるわけでもなく、柿崎の条件を呑んだ。
それなのに、と紅林は柿崎を睨む。
あのねぇ、と柿崎は頬杖をついた。
「勘違いしてもらっちゃ困るんだけど、僕は約束破ったつもりも破るつもりもないよ。だけどあれだけの費用をいっぺんに払って、君に疑いがかからないとも言い切れないし、そうなったら君、僕のことしゃべるかもしれないじゃない」
 紅林はそこで口を挟もうとしたが、柿崎に制された。
「まあ、君の性格上それはないと思うけどね。それよりも捜査の手が君に及ぶと僕も困るんだよ。ただでさえ手術の費用の出所が不明なのに、そこにまた不審な金が君の懐に転がったらどうなると思う?」
「……金の持ち主を調べるだろうな」
 ぴんぽーん、と柿崎は人差し指を立てる。
「僕自体は疑われても、まぁ切り抜けられるかな、君に関しても、アリバイはあるわけだしだいじょうぶだろうね。でもねぇ一度疑われると、面倒だよ。警察っていかにもしつこそうじゃない」
だから、と柿崎が言ったのを紅林が継いだ。
「……だから、ほとぼりが冷めるまで待て、か?」
「そう言うこと。君は今までどおり学校に通って、ちょっと悪で前科持ちの不良、だけど人情にはちょっと厚い高校生を演じてればいいんだよ」
「それで、あんたは今までどおり、科学者特有の変人ぶりを演じるってか?」
「僕は演技じゃなくてこれが素だよ」
 なお性質が悪いじゃないか、と紅林は思う。
ほとぼりが冷めるまで、と柿崎は言ったが信用していいものか、迷う。しかし事実疑われて困るのはお互い様で、ここで紅林を裏切ったところで柿崎の利点になるとは思えない。
「納得した?」
「……納得はできないけど、理解はした。けど先生、あんた俺をこき使った上に、一割っていう滅茶苦茶な条件出したんだ。俺にもひとつ条件ださせてくれよ」
 柿崎はあごに手を当て、値踏みするように紅林を見る。
少しの間が空き、いいよ、と明るい声で答えた。
それから本に埋もれた畳から適当に紙を探り当て、座卓のペンと引き出しから朱肉を取り出した。
「さすがに、捕まったと聞いたときは僕も悪いことしたなって思ったしね、これでおあいこにしようか。とはいえ、それでも僕が裏切るかもと君に思われるのは癪だからね。宣誓書を書いてあげるよ」
「宣誓書?」
「僕はこの紙に誓いを書いて君に渡すってことだよ」
 はあ、と紅林は気の抜けた声を出す。こういうとき柿崎の性格が読めないことを実感する。狡猾で非道なのかと思いきや、たまに見せる真摯な態度に虚偽らしきものは見えない。柿崎のことを理解しようとすればするほど混乱して、どれが正しい柿崎の姿なのか分からなくなる。逆に言えば、それが柿崎という人間なのかもしれない。
 紅林はそんな眼前の男を好きではないにしろ、嫌いにはなれなかった。

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