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先生と豚18(最終話)

あの夜から早いもので十年の月日が流れていた。世間を騒がせた事件は、もうすぐ時効を迎える。紅林は、物憂げに無精髭を撫でた。

元支店長の男が柿崎の部屋に訪れた時、そこに紅林が隠れていたことを男は知らない。書斎の本が堆く積まれた一画の影にスペースを作って柿崎との会話を盗み聞いていた。それは柿崎が指示したもので、つまるところ諸々の説明が面倒だから隠れて聞いていろ、ということだった。
そこで分かったのは銀行では通常、紙幣の番号を控えて盗難されたものが使われた際にすぐに分かるようにしていることだった。紅林はその話を聞いたときひやりとした。そのとき既に母の治療費を支払っていたからだった。
しかしどうやらそれで、足がつかないように協力者がメインコンピューターのデータを全て削除したらしい。顧客データは本社に保存されていたものの、流通のある現金紙幣に関しては各支店での管理となっていた。データが削除され真っ先に疑われるのは行員であるため、その痕跡を上手く処理するのに手間取り、当日は予定の時間に遅れたと男は柿崎に話していた。
なるほどな、とその場の紅林は納得した。
あれから十年が経ったいまでも確かにこの人物がいなければあの作戦はなし得なかったろうし、破綻していただろう。そして男がいなければ、紅林らはそもそも銀行強盗になる事もなかった。
紅林はふと目を開けた。
無精ひげを撫でて感傷から現実に戻る。
「いいのか、悪いのか」
あの事件のことは色々な噂が流れたが、誰一人として真実に到達するものはいなかった。しかし、紅林は素直に喜べない。その事件を機に生活が楽になると考えていたのだが現実はそう甘くなかった。
母の手術は成功したが、事件から五年経って紅林家は火事にあい、家財と一家の主であった母を亡くした。なかなか定職にもつかず、その日暮らしが続いている。唯一、頼みの綱だった柿崎も少し前に既に事故で他界したと知った。事件があってから、いままで、絵に描いたような苦しい生活を強いられていると思う。
「なんだかな……」
手に握り締めた聖徳太子はあのときの記念に一枚だけ取っておいたものだった。
できればあの人――協力者の男にもう一度会いたいとも思ったが、それも叶わなかった。
紅林はふう、と息を吐く。
振り返ってみれば苦難ばかり、そして目の前に続く道にもおそらくまた苦難が待ち受けている。それもこれもあの日柿崎の甘言に乗ったためなのか、それともそういう命運なのか。
「けど、そうだな。今日くらいは」
聖徳太子を銀行で福沢諭吉に変えて、ひとりで時効のお祝いでもしようかと紅林は立ち上がる。酷い人生ではあるが、まだ生きていかねばならない。
「先生の好物って何だったっけ」
豚肉だったかと思いながら紅林は立ち上がり、歩き出す。一歩、また一歩と力を込めて踏みしめる。そうする事でこれまでの出来事を振り切るように。一歩、また一歩。

ここからだ。


ふと空を見上げると、きれいな夕焼けが広がっていた。



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