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静寂のメノム


男はその日も慎重にドアを開けた



ただいまー、と心の中で呟きながらドアを閉める、ここが大事なのだ、慎重に、音が鳴らないように、全ての神経を研ぎ澄ましながらドアを閉め、鍵を閉め、闇の中へ突入する

映画「クワイエットプレイス」のワンシーン、声をあげたらモンスターに襲われてしまうような緊迫感と焦燥感を肌で感じながら、じりじりと、ゆっくりと、でも確実に、一歩一歩闇の中を進む。カカトから爪先へゆっくりと体重移動するのにも随分と慣れたものだ

真っ暗なリビングを抜け、奥の部屋のドアを開ける。鍵は閉めていないから音など鳴らないのは勿論知っている、知っている匂いのする部屋だ、手探りで照明の位置を探りながらゆっくりゆっくり、最後の気力を振り絞ってドアを、閉める


「ふぅ」


男の帰宅は、ここでようやく終わる、むしろここが家、この部屋が家、部屋以外は戦場だ。やっと、やっと一息をつける、呼吸をするのもようやくこの頃に思い出した

部屋着に着替え、いつものチェアに腰掛け、大好きなコーヒーを一口飲み、深い深呼吸をしてふと顔をあげる


疲れた


繁忙期に入り、深い時間に帰ってきた際はすでに寝ている妻へ最大限の配慮を怠ってはならない、これは誰が決めたわけでもない、言われた訳でもない、「お年寄りには親切にしましょう」レベルの話だと思っている、人間社会には得てしてこのような目には見えないルールが多い、それすら1から説明しないとわからなくなっているのが昨今の日本なのかもしれない


とは言え、毎日毎日この緊迫感はたまらない、流石にここまで気を使うのは痺れる、うるさくしないというシンプルなルールであるが故に難しい、それを映画にするという発想は全くもって素晴らしいものだ

そんな事を考えながら独り言を言うタイプではないがポツリと自然と、男は言葉が出た、疲れた、ああ、疲れたな。


人間は多かれ少なかれ皆頑張っている、生きるために必死で何かと戦っている、男も例外ではなかった。世間という不条理に耐え、仕事という理不尽をこなし、今日という今日を文字通り必死で生き抜いたうちの1人なのだ、労働とはなぜなのかすら考えられないくらい気がつけば頭の先からつま先までヘトヘトである事に気づく、あぁ、疲れた

読みかけの梶井基次郎氏の古本を片手にコーヒーを飲みながら、男はそのまましばらく読み耽った、活字中毒、お前は活字の中毒者だ、いいじゃないか、少しくらい、あ、そうだ、そう言えば仕事が忙しくて返していない返事があった、思い出した、いわゆる先輩からの飲みの誘いの返事だ、やばい返してなかった


危ない危ない、忘れるところだった、男は下戸だが居酒屋は好きなのだ、しかもこの先輩は入社当初からお世話になったいわば人生の恩人だ。右も左もわからない頃から今に至るまで、結婚した時でさえも祝福し、支えてくれた、そんな数少ないかけがえのない大事な先輩だ。ずっと居酒屋行こう行こうと言いながらお互い社会人で既婚者になり「いつでもいいから」の“いつでも”が相手の事を考えるとなかなか合わず、そして誘えず仕舞いでダラダラと伸びてしまっていた


そんな先輩と今日の帰りにたまたま一緒になった時いよいよ行きたいねと意気投合していたのをすっかり忘れていた、流石このまま気を使いすぎて冬を迎えるのは逆に失礼だ、危なかった、こういうだらしないことは1つ1つ潰していかなくちゃいけないな、そうだ、思い切って来年は手帳でも買ってみるか、万年筆とかもいいな、全く私も大人になったものだな、なんて、そんな事を考えながら男は、携帯電話を開いた。



「無敵の笑顔で荒らすメディアっ!!!!!」


「知りたいその秘密までミステリアッ!」



一瞬、時間にしてコンマ何秒、神をも見逃したこの一時だけ、男は固まった。何が起こったのか理解できず、全ての細胞が停止し時は止まってしまった、まるでイナズマでも落ちたかのような衝撃だった。凛とした空間に全くと言っていい程に似つかわしくない大音量のJ-POPが携帯電話から流れている、私の?そう私の。


「完璧で嘘つきな君はっ!」

「天才的なアイドルさまっ!」


数秒遅れてやっと脳に信号が走った。そうか、今はスマホから音楽が流れてるのだ、音楽、これは音楽、YOASOBI、YOASOBIの曲、とても売れたらしい曲、それが流れている。なぜ?間違えて押した?そうか帰るときイヤホンで聞いてたしな、さっきまで聞いてたし、そうだ聞いてたんだ、それが流れてる、今?

今!!!!!



パニック、男はパニクった、そりゃもうパニクった、さっきまで吐息すら聞こえない部屋だったのに音楽鳴ってるだけでクラブみたいになってる、マジで超焦った、焦って止めようとすると不運とは重なるもので無情にも携帯電話は手からすり抜け、そのままテーブルに落ちた


ガンっ!



なにー?




鬼が起きた!!!!













<日記はここで終わっている>

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