毎日トレーニングしないと文章なんて到底書けるようにならないわな
緊急事態宣言が出て、わが社もテレワークとなり、原則必要がなければ出社しないという対応になりました。現職は営業職なのですが、お客様に対面して会うことすら禁じられてしまったので、実質仕事自体が禁じられてしまったようなものです。
まあ、こんな時に無理に人に会いに行ってどこかで病気を拾ってきても、相手方に伝染してしまっても面白くないので当然といえば当然の対応かとおもうのですが。
ですので、ここ2週間くらいはひたすら電話を掛けたりお手紙を書いたり、必要ができたら出社して書類を作成し取引先に送るような作業を行っています。でも、作業の量にも限りがあるので、実際の仕事時間は微々たるものです。ほとんど仕事なんてないんです。
それで、せっかくの機会なのでこれまでやろうやろうと思いながらもなかなか行えていなかった趣味でやっているSNSの整備だったりとか、映画を観たり本を読んだりというインプット、文章を書いたり絵を描いてみたり、あるいはこれまでチャレンジしてこなかった漫画を描くというようなアウトプットにも積極的に力を入れて行こうというような気になったわけです。
これまでは「時間がないから……」というてっぱんの言い訳を使って何もできていない焦燥感をだましだましで抑え込んできました。ですが、この期間に限っては時間だけは腐るほどあるのです。時間がないと感じてしまうのは、時間の浪費が見える形になっているというそれだけのことなのだと思います。
私は意気揚々として、自分のデスクの周りを片付け始めました。そうです。私のデスクはテレワークが始まる瞬間まで作業ができるような状況ではなかったのです。何たることでしょうか。そんな状況では当然作業などできようはずがないではないじゃないですか。
テレワーク初日の午前中いっぱいを使って、私の部屋は作業がなんとかできるような仕様に変わりました。
私の部屋は四畳半の和室で、それまではふすま風の入り口から見ると、真っ先にお布団が見えるようなレイアウトになっておりました。帰ってくると恋しいお布団が見えるので、服を脱いでまんまとダイブしてしまうような、そんな構造です。そんな環境でよく、いろいろな作業ができると思いあがっていたものです。
片付いた後の私の部屋の構成はすっかりと変わり、入ってすぐにデスクが見えるような形に変わりました。デスクの周りも比較的綺麗です。デスクの上には、すぐにお絵かきができるように紙とペンを。そして、すぐに起動できる状態にしたsurfaceとキーボードとマウスを置く形にしました。
これで、寝る前に一瞬だけでも何かしらの作業ができる状態になったぞ。と私はほくそ笑んだものです。
さて、実際にテレワーク期間に入った私はある事実に愕然とせざるを得ませんでした。まったく文章を書いたり、お絵かきしたりがはかどらないのです。いや、実際にある程度は楽しく行うことができるのですが、見えない天井に阻まれるように、ある一定上の喜びや楽しみを見出すことができない自分に気づいてしまったのです。
そして、それにはいくつかの理由があると私は考えました。
ひとつめの理由は、文章を書き続ける、絵を描き続ける筋肉がまったくもって衰えてしまっていたという点です。
大学に通っていたころには「ん、じゃあ来週までに3000字でまとめてきて」と言われれば、翌週までにその文字数で指定されたレポートを仕上げていくような生活を送っていました。それが正常の状態であり、「期末のレポート5000字ね」と言われれば、なんとかしてその文字数を締め切りまでに上げて持参していたものです。
ですが、なんということでしょう。締め切りすらなく腑抜けていた私は全く気付いていなかったのでした。その筋力が衰えていたことに。思えば当然のことです。締め切りに向けて書き続けることの重要さはなによりも勝るものだと思います。だというのに私は、野に放たれた文鳥のような心持で、自分が衰えることにすら思い至らずに得意になって低空を飛び回っていたのでした。
いま、得意になった私が、「十分な文字数を書いただろう!」と思った文章の分量はたいてい1000字に満ちていません。それは伝えたいことを言い切れていないことの表れであります。なんと悲しいことでしょうか。なんと、恥ずかしいことでしょうか。
続けることの重要さを、改めて噛み締めているのが現状なのです。
第二の理由は、私がかっこつけであるという点にあります。私は、公開するものは何かしら完成したみんなに褒めてもらえるようなかっこつけのものでなくてはいけないと、腹の底の底で思い込んでしまっているのです。完成していない汚い文章や、切れ端みたいな文章を「これは完成していないから、皆様の目を汚すだけではずかしいので、こっちに置いておこう」としてしまっているわけです。尊大な羞恥心と臆病な自尊心が邪魔をして、行動がガチガチに縛られているのを感じました。中島敦が彼岸で嗤っています。これを克服する方法はただ一つ。その途中になってしまったものをどうにかして完成に持っていくことです。
完成とはどういうことでしょうか。わたしは考えました。文章で言うなら3000字です。3000字が完成だと、私は思います。それ以上に自然になってしまうのなら、それが完成だと思います。もっともっと書きたいという執着を感じてさらに何千字も何万字も書いてしまうのであれば、その果てが完成だと私は思います。
イラストで言うなら、どんなものでも人に見てもらえる状態を完成というのかなと思います。これは、自分がイラストや漫画を本分だと思っていないという甘えも含まったものだと思います。
完成せずに捨ててしまうものが多くあるのであれば、それを無理やり完成に持っていってみたらいいのではないでしょうか?書きかけている小説も、まずは完成に持っていく。あとから手を加えて思う形に整えていくのです。だって、誰に言われてやっている創作ではないのです。好きなタイミングで好きなだけこねくり回したっていいわけじゃないですか。そして、その完成を目指す心というのが、私が望むものなのであればそれが最強なのだと思うわけです。
誰かの目を気にするのは不毛すぎると、私は何度も何度も私の腹のうちに語り掛けています。いつ、わかってもらえるのでしょうか。
創作にある一定以上の喜びが見いだせない最後の理由は、圧倒的な準備不足にあると思います。わたしは、驚くほど準備をしない女です。旅行に行く時だって前日の深夜にようやく荷物を詰め始め、現地に向かう移動手段のなかで初めて今回の旅行でめぐる観光地を決めるようなやつなのです。そんなやつがなぜ、自分で文章を書く際に、念入りな準備をするものでしょうか。しかし、考えてみれば、準備ほど大切なものはありません。準備ができている人ほど強いというのは事実です。
推理小説で、作者が全然準備していなかったら、結末がどこに行くのかさえわからないなんだか不思議な仕上がりになってしまいます。映画の撮影に、何の準備もせずに臨んだとしたら、なんとも滑稽な、どうしようもないものとなってしまうに違いありません。準備こそすべてなのです。
準備がうまくできない私が準備をうまくできるようになるには、どうしたらいいのでしょうか。
考えた結果、いま、すぐ行っている作業を何かの準備にしてしまうのがいいのではないかと思いました。いきなり書き始めた小説それ自身を何かの準備にしてしまうのです。書き始めた落書きそれ自身を、なにかの準備にしてしまうのです。本番だと思っているものを私は準備にしていく。それをすることで、準備万端になることができるのではないでしょうか。
準備に関して、先日、本当に愕然としたことがありました。仕事で商談に出る前に私は「準備」をしていました。相手に提案したい内容に合わせて商品を用意し、説明のための文句を考え、わかりやすいように文章にまとめて、提案順にファイルに重ねていったのです。その後、自分用の控えを用意し内容をチェックし、上司にも確認をもらってプレゼンの練習をしました。……なんと、仕事だと思っていれば、私は準備ができる女だったのです。準備を着々を進める自分に気づいたときに、私はどうしようもなく震えてしまいました。
ノルマを課すのは性分にあっていません。なんとなく、ゆるく、好きなように自分の食い扶持だけ稼げればいいのです。飢えて死んでしまうというような逼迫した恐ろしさもありません。のうのうと、できる限り楽しく生きている生活の一部に何かを表現することが入れられたらいいなと思っているだけなので、せめて突き抜けて楽しい瞬間を得ることができると嬉しいと思います。
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