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暦的、カレンダー的な

寝室の、箪笥の上の本の一番上に山下澄人『緑のさる』があって、手に取って立ったまんま読み始めたら最初の数行のかたまりがなんかもう変だ。何が変なのか読み返す、もう一回読み返した。ひとつひとつは何にも変じゃない、
書かれたひとつから繋がる次のひとつがなんだか直結せずに飛んでるように読んだ、読んでいるのは僕なので、鳥は自分が飛んでるから、飛んでる鳥より地面を歩いてる僕の方を変だと思うだろう、鳥も歩くから例えが相応しくない。魚、魚は水の中を泳ぐけど歩かないから魚だ。僕は僕が無自覚に次を想定していることをここで知る、
すげぇ
不安も好奇心もわからないからこそ起こる、別のときに読んだら不安になるかもしれない。今回は、変がすごいに続いた。前も何度か読んだから、いつも読み通してないが始まりのここは何度か読んだはずだ、けれどこれまではそうならなかっった。なっても忘れている。始まりはこう、

 喪服姿で電車に乗っていたわたしは月の半分ほど葬儀屋でアルバイトをしていた。今日も葬式をひとつ済ませてきた。わたしの両親はがんで死んだ。両方とも死んでもう十年以上たっていて、毎年両親の命日をわたしは忘れる。季節は秋で、九月の終わりで、空は曇っていた。毎年両親の命日をわたしは忘れる。

山下澄人『緑のさる』


毎年両親の命日をわたしは忘れる

というところを読んで、ふと、今日は何日?
昨日は何日だった、昨日は中秋の名月だった、昨日は九月十五日ではなかったのは間違いない、十五夜って十五日あたりの満月で、中秋の名月ってその十五夜のことだと漠然と思っていたことを昨日知った。十五夜はいつから十五夜なのか、ただ一日から十五日目だと思っている節があるが、満月からだよな、違うか。新月からか。
今日は、土曜日だ。水木と喫茶をやるからそこは一つの座標になって、でもそこから二日も経つと、その感覚を二日として記憶してることもあればもう何日経ったか、そのことを想像したら砂丘に強い風が吹いて砂が煙みたいに待っていく景色が観えた。体感としてもう曖昧、それが舞い散る砂になったのか、一昨日高橋さんや麻生さん、他にも来てくれたお客さんと随分愉快に話をした記憶はすぐそこにある。すぐそこにあるけど、昨日じゃなかったこともわかる。昨日の夜、陽平さんと横井ちゃんと話したことも昨日のこととして覚えてるけど記憶の近さは、一昨日のほうが少し近い。
カレンダーがなかったら、きっと僕はまる一年を体感できない。七十二候はすごい、そのときの景色と結びついている、五日ごとに候が変わっていくので、今年はものすごく暑かった、最近はいつも「天気がおかしい!」と言われてなんと返していいか困った。天気がおかしいことなんてないからだ。おかしくなるのは以前の平均と比べるからだ、
それでも暑いのは僕も暑い、これじゃあ虫や草も大変だと思うけれど、七十二候からはほとんど外れず、蛙が現れ、ミミズが活発になり、雷は収まっていった。
この暦で行ったら、出ればその時がその時になる、ズレたり広がったりすれば暦を変える。主はあくまで景色の方にあって、カレンダーを主にして「おかしい!」というのは変だ、『緑のさる』の冒頭の変さとは違う変さ。
『緑のさる』は、僕はそれまでカレンダーに自分を合わせていたのだ。書くときに文法の正確さに固執して内容を改変するような変さだったら、僕は僕がおかしいとはならなかった。
文の在り方にもカレンダーと暦があるだろう、僕が無自覚に想定していた文の繋がり方は僕一人じゃ着ることはなかったのだから、多くの文、がカレンダー的な書かれ方をしていたということなのだろう。カレンダーが悪いわけじゃない、それが必要だった人、一人の人というかそういう場合があったからカレンダーも作られたのだろうから、
やっぱりこっちの問題だ。

結局、引用したところだけ読んだだけで終わってしまった。読み通すことが目的じゃない、僕はなんで本を読むのか?
現実逃避とかファンタジーの世界に没頭する、という経験がないのでどんなものかわからないが、書かれた世界に没頭することはないが、ある本を読むと頭の後ろ側の方に突拍子もない(とそのときの僕の意識にはそうとしか思えない)景色が観えたり、閃いたり、背骨や筋肉が動いたり、する。

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