優しさにベクトルを。 承認欲求なんてものは、ない

「昨日、旦那と大喧嘩してさ」
熱を出してる旦那と喧嘩した。私はルーティンを崩したくない、自分のペースで自分の順番で家のことをしたいのに、平日に熱を出して寝てるだけでそれが崩れる。それが許せない、
「どっちを?旦那さん、〇〇さん?」
質問の意味が最初わからなかった、でも言われてみると、確かに私が許せなかったのは、
質問も勝手に出てきた。僕はそれを聞こうとしたわけじゃなかったけど、どうも気になったらしい、自分ではない「自分」が。
旦那が熱を出してたのに怒ってしまった、相手も辛いのになぜ、怒った瞬間は確かに旦那に向かっていたけど、それはすぐに八つ当たりのようなものだと気づいて、でももう止められない。本当は喧嘩なんかしたいわけじゃないのに、あっちも俺熱出してるのになんで、もう少し優しくしてくれてもいいだろ!何よ、あなたは全然私に優しくしてくれないのに自分ばっかり!してるだろ!いつよ!
売り言葉に買い言葉。
「感情って、よく観てみると外の相手に向けるものじゃなくって、身体、まぁほとんどの場合内臓なんだけど、身体から自分に向けた「声」なんですよね」

余裕があればそんなことも許せるのに、余裕がないから許せない。つまり自分がいっぱいいっぱい。そして、旦那が優しくしてくれてもそれを優しさだと思えない。〇〇さんだけじゃない。僕もよくある。自分は優しくしてるつもりなのに、それが相手にとっては優しさに映らない。

優しくして。
そう言われても、どうしたら優しくしたことになるのかわからない。自分では優しくしたつもりなんだけど、
と言ってるそのさなか、優しくしたって具体的に何をしたんだっけ?

察して。自分から言わなくても何をしてほしいか、察して。と言っても、それができたら特殊能力とされるくらいに、私たちの人やモノを見る目は、狭い。
優しくしてほしかったら、まずは具体的に何をしてほしいか、口にする。
赤ちゃんはそれができない、具体的に口にすることが。でもそのぶん素直だし、望みが生理的なものだから身体全体と乖離しないで、そのまま体全体あらゆるところで表現してくる。泣き声を、こう泣いたら他人がわかるだろうか、とか今泣いたらこの人に悪いから別のやり方を考えるか、とか周囲に合わせてやらない、お腹が空いたときと股が気持ち悪いときで声や動きそのものが勝手に変わる。
大人もそれができたらいい。でも、もうただ泣くことや笑うことが難しい。ややこしい。ややこしさ、は洗練でもある。だから洗練、は怪しい。洗練さを有り難がるアレは、何だろうか。
ややこしいことに、人は言葉に騙される、言われた人だけじゃない言った当人も、言葉にしたことで自分はそう思ってると騙される。だからこそ、具体的に口にすることは、自分と自分を合わせるいい訓練にもなる。
自分は自分がいちばん身近にいるのに、その自分の声をちゃんと聴こうとしてあげないで、つまり何?をはっきりさせるのが難しくて面倒くさいから優しくして、といって済ます。優しくして、という言葉は相手に対する甘えである以上に、自分を甘やかしている。今言った「自分」は、先生とかコーチとかに
「自分を甘やかすな!」
というときに指している「自分」とは真逆。スポーツの練習なんかで大体そういう苦しいときって、苦しんでるのは「自分」ではなく「身体」だ。
ややこしいかな?

身体は正直だ。言葉ではなんとでも言えてしまうことが、体にはできない。嘘がつけない。満腹なのに、好きなものを目の前にして空腹にはできない。小さな棘に傷つくのが恥ずかしくてなんとも思ってないと言ったところで、身体は即座に硬直する。
それを無理に外に合わせさせる、このとき「自分」もまた外だ。でも甘やかされた「自分」は、繊細に身体の正直な声を拾えない。
だから言葉そのものより声色とか喋り方に耳を澄ます。発した言葉の中身よりもその言葉を選んだ、そこに至るまでの間、口調、速さ、それまでに選ばれた言葉たちとの釣り合い、そのズレにその人の、その人自身さえ気づいてない違和感が、本意が現れたりする。
それを拾うのもまた、言葉で拾うのでは騙される、言葉にしたくなる前の段階でとどまって、なんというか浸る、味わう、触覚に任せる感じ、するとこちらも勝手に言葉が出てくる。その言葉は、自分でも考えもしなかった考え、それはいつか読んだ本や誰かに聞いた言葉かもしれない、それまで思い出しもしなかった記憶かもしれない、好きだと思ったことなんて一度もなかったことかもしれない、それらが現れて喋り出す。私はまるで声を発する装置のようだ。


なんで旦那は優しくしてるのに、私はそう思えなかったの?私が優しくしてるのに、あの人はそう受け取ってくれないの?
行為には、それが向かう方向もとても重要だ。そこも、身体は曖昧にしない。

娘さんが〇〇さんを抱きしめてくれた、そして言った。アホな僕は、正確にそれを忘れた。なんだったか、
「ママは認めてほしいだけなんだよね、私はちゃんと見てるよ」
と、そんなことを言った。〇〇さんは小さい頃のお母さんと自分を思い出した、
「娘が平均70点取れるように頑張りますって書いたら、おばあちゃんが
「あなたのママは90点取ったら、
「なんで100点取れなかったんだろう」って悔しがってたのよ」って言ったの。
でも私がそうだったんじゃない、お母さんが100点じゃないと褒めてくれなかったから」

〇〇さんは、お母さんに90点取った自分を認めてほしかった。でも、その時褒めてくれなかった、その寂しさがずっと残っていたのだ。
話しながら自然に涙が流れていた、その涙を見て僕は確信していた。身体は正直だ。
そりゃいくら旦那さんに優しさを求めても、どれだけ優しさを表現してもらっても満たされないわけだ、だって〇〇さんが欲しかったのは

お母さんからの眼差し

だったのだから。
多分、承認欲求というのも漠然と認められたい、というのではなくて、きちんと具体的な方向がある。それを曖昧にして承認欲求と言ってしまうことで甘えているのだ、具体的な方向づけが見えるとそれは承認欲求という言葉ではなくなる、だから僕は承認欲求というのを非常に疑わしいものだと思っています。



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