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今日の夢。横尾忠則の霊性。

もう順序や細かい内容は忘れてしまっている、いや細かい断片ばかり思い出して、肝心のところの言葉も思い出せない。ただ、これは凄いことを聞いた!と瞬間動いたそれ、情動と、そのとき見ていた絵がぼんやりとだけは残っていて、
初めに覚えてるのは段々の石垣が立派な平家の農家の家で、長靴を履いた大人が数人集まっていた。家の前の段々は畑と田んぼで、田んぼももう刈り取りが終わって黄色くなった稲の根元から青草がひょろひょろ伸びている。
家に入ったのか、ガラッと場が変わったのか、土間は広く、真っ黒い梁が幾筋も交差する天井は暗くて天辺が見えないほど高い。バタバタと尼さんたちが朱色の膳を持って行き来している。土間の左手にある小さな、茶室の扉みたいな出入り口は腰より高いところにあって、両手が塞がってるから皆苦労して上り框へ飛び乗って、真っ白い足袋に目がいく、膳をひっくり返さないように注意が必要だ、身をかがめて向こうの部屋へ急ぐ。出入り口の隙間から見える向こうは本堂らしい。
部屋は広くて白い、背の低い家具とそこここに絵が、飾ってあるというより置いてある。重ねたままのものもある。ソファに座ってガラスのテーブルに広げた紙の絵を見ながら、横尾忠則(会ったことがなく面識もないので敬称略しました)が絵の解説をしてくれるのだが、解説というかどれだけこの絵がいいか、好きかを語ってくれて
「この作意のなさがいいんですよ。この人の絵は、本当にいいなぁ」
と笑みがこぼれてくるのを見ながら、僕は誰の絵だろうと思えば、これらはどれも横尾忠則自身が描いている絵だったことに気づいて、さらに好きになった。
「この絵のどこがいいかって、元々の絵が無造作に背景になっているでしょう。自分で描いた絵をこんなふうに無造作に(無作為に、だったかも。そもそもそんな風な言い方をしただけで一言一句、何ひとつ正確じゃない可能性の方が高い)、自由に扱えるのが凄いなぁ」
それから、その無造作、無作為と「霊性」(と言ったのは間違いない。僕は自分の人生で一度もこの言葉を使ったことがないので覚えているのだが)がいかに結びついているかを、短く的確な言葉で説明をしてくれたのだけど、内容は目を覚ました瞬間にすっかり忘れてしまい、ただその言葉への情動だけが僕の胸に残っていた。

この情動が、寝ている間に起きたものであるが、具体的な内容も忘れてしまったにも関わらず、起きた身体にはっきりと残っているその感覚だけで、それが描くとき、書くときの僕に大きく作用する。それは僕一人から生まれたのだろうか?
霊性?、と聞かれて答えられる自信もないが、説明できなくてもその重要さは、この夢を観てしまった僕にはしっかりと存在してしまった。

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