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世界と繋がる芸術論 14+15

  世界と繋がる芸術論 14
 

僕は実家の庭に三畳の広さの焙煎小屋を建てて、そこでコーヒーを焙煎している。手廻しの焙煎器が置かれた目の前の壁には家が取り壊しになる寸前に貰ってきた窓がはめてあり、焙煎しているあいだ、そこから季節によっては勢いよく伸びる草や色とりどりの花や、そこに集まる蝶や蜂や蜘蛛、それを食べに降りてくる雀や燕や鶺鴒、通り抜けていく猫が目に入る。何もないときでも、いつでも土は見えている。      
僕はただ好きで焙煎しているから基本的に義務感を感じることはないけれど、一日に六回も七回も回さなければならないとき、ふと(豆が焦げちゃうから)手は止めないけれど
「俺は一体何やってんだろう?」
という思いに囚われるときがある。だいたいそういう思いに囚われる時は、やらなければならない仕事として焙煎をしている時や、他の何かに気持ちが向いている時、漠然と疑問を感じているときだ。
ある時も焙煎をしていて、そんな想いに囚われた。ふと窓の外に目をやると、そこにいる僕以外のあらゆるものは、ただ伸びたり枯れたり、ただ移動したり、ただ食べたり食べられたりしている。要するに、何も創り出していない。そう見えてしまった僕はハッとした。
「何も創造しなくても、生き物は生きている(のに、人間だけはそうではなくなってしまった)。」

彼らの方が生きるということにおいて圧倒的に正しい姿に見えてしまう。が同時にこのとき、
「人間だけが何かを創造するということは、それは木が冬に葉を落とすように、人間という生き物にとって自然なことなんじゃないか(だから、何かを創造せずにはいられないことは、なんら不自然なことじゃないのではないか)?」
とも考えている。動物や植物だって呼吸したり光合成したり、食べられたり排泄したり、子を産んだりしているのだから、何も創造してないなんてことはない?それを言うなら人間だって息もすればうんこもする。その理屈が通るのならば、そもそも人間だって働かない何もしないといって非難される謂れはない。
 
いつの頃からか、僕らは「創造」という行為に、創り出したものを社会に還元して対価を得ることまで含めてしまった。社会の恩恵に浴して生きる以上、そうしなければ社会自体が存続できなくなってしまうのだから、当然といえば当然だ。創造したもので対価を得るには、それを必要と自覚する他者が必要になる。そして、その他者が多ければ多いほど、つまり需要が大きいほど見返りも大きい。逆に、生きるのに必要ないと思われるものは、他者から対価を得ることが難しくなる。そういう人は、社会的に価値が低い、とさえ見做される。
衣食住に必要なもの以外は人生において余剰の価値であり、本なんて読まなくても生きていけるし、音楽なんて聞かなくても、映画なんて見なくても、野球やゴルフもなくたって、人間は生きていける。そんなもので飢えた子どもを救うことができるか?生きる上で芸術とは必ずしも必要ないものだ。
という世界観は本当だろうか?

確かに芸術に触れなくても生きていける人はいるかもしれない(本当に?と、その人に僕は問いかけたいが。さっき、僕は対価を得るためには「自覚する」他者が必要だ、と書いた。しかし人は自分に必要なものを本当に知っているのだろうか)。造り手、創造する側に立ったとき、それがなければ生きていけないという人は間違いなくいる。というか、生きるということがただ息して食べて眠るという行為「だけ」ではないこと。確かに小説を書くだけでは物は食べられないが、それ以前に彼は生きるために書く。たとえば坂口恭平という人は、とにかくまず書く。強度の躁鬱を患う彼は、鬱に落ちないために、鬱のときは死なないために筆をとる(その数、原稿は毎日十枚、水彩画は毎日五枚‼︎)。誰に頼まれるでもなく、生きるためには書くしかない。売れるか売れないか、需要があるかどうかなんて、それをせずにいられない者、死の際にいる者にとっては二の次どころの話じゃない。
 
創造という行為は現代においては多分に社会的なものになっているし、だからこそ勘違いしてしまうけれど、人間だけが創造するが、他の生き物にないものを人間が獲得したのではなく、もともと生き物が持っていた生きるための能力を、人間は社会化することで創造という能力に移行した(もともと持っていた能力とは、他者と繋がっている感覚のことだ。ちなみに社会化そのものも、その感覚の延長だと僕は思う。過去連載参照)。あるいは創造という言葉を当てはめた。
そうであるなら、人間にとっては創造することそのものが、実は生きることに必要なことなのだ。創造することは、食べる寝るセックスするのと同じ、生きることなのだ。

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