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世界と繋がる芸術論3+4

      アートになるには問題 3

 
想像力とは、いったいどんな能力のことなのだろう。
ゴリラは二、三〇頭の群れで暮らしていて、仲間の結束は非常に強いが寝るときは一匹に一つのベッドを毎日作るくらいには自己と他者が分かれているらしい、仲間の死を悼む光景が見られるなど自我や死の認識も備わっているとも言われている。しかし、一度群れから離れた個体はよそ者とみなされてしまい、二度と同じ仲間として群れに戻ることはできない。
人間は数十年離れていたって、久しぶりの再会を果たした友達を自分の記憶にある友達と同じ人物として受け入れられる。
本来、自分から遠く離れた場所や時間のことなど知りえないのだから、時間の切断を経た再会はゴリラのように常に新しい出会いとして受け入れるほうが自然にも思える。でも人間は、自分が知りえない空白や切断が自分にとってのことであって、現実には他者も世界も変化し続けていることを知識として知っていて、その空白を勝手に埋め合わせてつじつまを合わせることができる。成長したゴリラに子供だった頃の本人の写真を見せたら、それが自分だとわかるだろうか。おそらくそこに写っているのが自分だと(そもそも写っている、という状態がわかるだろうか?)認識できないのではないか。それとも人間が自分を自分とわかるのは、知識として写真とは過去にあった事実を写し取ったものだとまずあるからそうとわかるのか、あるいはただ鏡をしょっちゅう見てきたからだけなのか?
どちらにしても、人間が世界を認識(構築?)するこの能力は、大らかな〝曖昧さ〟とでも言うべきいい加減なもので、空白を埋め切断を繋げるものにはそれが事実であるという根拠がない。

デヴィッド・リンチが好きだった木村さんが七月末に亡くなったことを僕は人伝てに聞いた。聞かなければ、僕は今でも木村さんが生きている世界を生きていたはずだ。木村さんの死を知った今でも、リンチのドキュメンタリーが上映されることを知って、「木村さんに教えてあげなきゃ」と咄嗟に思う自分がいる。
もし人間の、空白や切断を埋める能力が正確なものなら、死というこれ以上ない空白・切断を知らないままでいたり、間違えるはずがない。他者も世界も、はたまた自分さえも繋がっているんだというのは記憶と知識といい加減な思い込みのなせる業で、事実そうであるとして受け取ることは不可能な気さえしてくる。そして、不可能だからこそ、人は予知夢や予言、幽霊を見たり生まれ変わりを信じたり、整合性のないものでも無理やりに埋めたり繋げたりしようとするのか…。

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