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世界と繋がる芸術論1+2


   どうしたらアートになるか問題 1

(以下の文章は2017年8月から2021年9月の間に書かれたものです)

七年くらい前だと思う、東京の森美術館へコルビュジェ展に行ったとき、別室では障害児施設「ねむの木学園」の子たちの絵画展も開かれていた。建築家ル・コルビュジェが描く絵は、ピカソと聞いて思い浮かべる絵を想像すると大体そんな絵を描いていたので、その時もピカソの絵が数点、飾られていた。ピカソの絵は圧倒的だった。ねむの木学園の子たちの細部の緻密さへの拘りやヴィヴィッドな色使い等が目を惹くその中の幾つかに僕はピカソの絵と同じように凄い絵だと感じた、そうでない絵もあった、コルビュジェの絵はピカソほどじゃなかった。ひとつひとつ作品を見て受けたものの違いは一体、絵にあったのか僕にあったのか、何がそうさせていたのだろう。
自分が描くと物足りないどころじゃない。
象や猿が描いた絵がオークションで高額で売買されることがある、僕も象になりたくなるが、でもやっぱりそれらの絵から受け取るものはピカソやねむの木学園で見た幾つかの作品とは全然違う。象が描いたと知ってからの方がへぇ、と思った、それも思うくらい。しかし何が違うのかと考えるからには、そこには明確な差があるはずだ。
その後、僕は別の美術館の展覧会でクレーの絵を見るとその差を特に強く感じた。ねむの木学園の子たちの多くの絵とクレーの絵は、とてもよく似ていた。同時に、その間には細いけれど深い深い溝が隔たっているように思われた。

とりあえず、僕は「そこに至るまでの時間」の差を設定して納得することにした。たとえば自閉症の人が描いた緻密な絵は、彼ははじめからそう描くしかないからこそ、そう描いたのだろう。その自分への厳格さは僕のようないわゆる健常者と呼ばれる人には及びもつかない。彼らは誰に教わるでもなく、そう描かざるをえなかったのだ。でもクレーは違う。あの交差する沢山の点や線や、そこにできた空間を埋めるカラフルな色の絵画ははじめからそうだったわけじゃない。『大通りとわき道』も『ぼろきれお化け』も長い時間の思索と試行錯誤の先に成り立っている。
でもそれは、絵を見てそうとわかったのでなく、僕がクレーの絵の変遷を知ってしまったから思うだけなんじゃないか?自閉症の人がどれだけの試行錯誤をしたか、僕は知らない。やっぱり時間の厚みだけで片付かない何かがあるんじゃないか。

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