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都市と田舎、狩猟と農耕

一昨日は喫茶の日で、カウンターに高橋さんと後藤くんが座っていて、高橋さんは
「おれは飯田市民より、信州人の方がしっくりくるなぁ」
と言った、自動車のナンバープレートの地域名の話だ、ちがう県議選の真っ最中で候補者の人が北にばかり使われる県の予算をもっと南にもってきます!という地域格差の話題からそうなった、後藤くんはいつもののらりとした口調で、平気で「いやぁ僕は全然思わないなぁ、飯田人がしっくりくるかなぁ。歳の差ですかね」
「だって、し・な・のぉのく・に・わ〜、て誰でも歌えるら?」
僕も後藤くんも歌えないのでごめんなさいの顔をした。
僕は自分が信州人はもちろん、飯田人だなという意識が全然、なんというか飯田特有の感性、この土地・風土から形作られた身体的感性が薄い気がしていて、薄いと言うのは自分では気づいてないだけかもという譲歩も込みで、ほとんど感じない。それは僕だけではないようで、初対面の人に必ず「で、神藤さんはどこから来たの?」と言われるほどだから、相当に「らしくない」ようだ(そう見られる一因にものの考え方があるらしいのだけど、僕自身はそれよりもむしろ「飯田弁」をほとんど喋らないことにある気がしている、その自覚は強い。小さい頃から飯田弁を喋る自分があまりしっくりきていないのだ)。
80代の高橋さんと40代に入った僕と後藤くんの、40年のあいだに暮らしと土地の結びつきがどんどん薄まっていったことも影響しているのでは?とも思うが、

最近、伊藤雄馬という言語学者の本『森のムラブリ』を読んでいて、ムラブリの話に触れていると昔の記憶をいくつも思い出した、

伊藤さんは、読んでいくうちになんだかどんどんムラブリになっているように感じる。日本の大学の学生時代のところはやっぱりそうでもなくて、ムラブリの調査にタイにラオスに行く過程で、ムラブリと家族として入り込んだ人類学者の話やムラブリの民話が出てくるあたりになると、ムラブリっぽくなっている。
そりゃそういう内容なのだからそうなるのだろう、と言われればそうなのかもしれないけれど、内容も言葉遣いも文章の調子も(僕が書いてるこんなものより、ずっと読みやすい)同じ人物の日本語なのに、読んでいる僕の中に立ち現れる伊藤雄馬という人物像が変化しているのだ。そこには書かれていないことも含めて彼を変化させていったムラブリたちの村、森での経験があたかも僕の中で立ち現れてくるような、
これは、『森のムラブリ』にも出てくる『ピダハン』というムラブリとは別の、同じ少数民族について別の言語学者でキリスト教の布教のためにピダハンと暮らしたエヴェレットという人が書いた本、エヴェレットは最終的にキリスト教から離れるところまでピダハンに影響を受けるのだが(アメリカ人の、それも伝道師である彼がキリスト教から離れる、というのは僕らには想像できないほどの転回に違いない!にもかかわらず)、あの厚い本を読む間たぶん一度もエヴェレットがピダハンみたいだと感じることはなかった、それが悪いわけじゃない、学問としてはそうでなければ成立しないだろう、
つまり伊藤さんがやっている言語研究は、専門、学問としての言語学から離れてしまったということなんじゃないか、
それこそタイミングで今日ムツゴロウさんが亡くなったのを知った、ムツゴロウさんがどこかで、熊が冬眠する証拠を発見したのは僕が最初だと思ってるし、そういうものをいっぱい経験してるけれどそれを論文にすることで学問という評価の裏打ちをされたくはない、と語っていたことを思い出した。言語学が伊藤さんがやってることを言語学と認めることは、それはパンドラの箱、開けてしまったらそもそも学問ってこれでいいの?を問い直さなきゃいけなくなるようなところで、量子力学の観察による現象への干渉の例に限らず、そもそも言語はそれを発する者がいなければ成立しないのだから、話者の感性や、その言語を発することで話者自身や触れる者に生じる現象を無視することは本当にはできない。
というか、言語学に限らず科学だって絵画や文学だって、というか学問が生まれたばかりの頃はやっぱりそうやって進んできたんだろうと思う。
いつから、それを主観的として切り離すようになったのだろう、切り離せないはずのもの、たとえば僕が『森のムラブリ』を読んでいる間に僕に起こった身体的変化(手に持った瞬間にもう起こっている)や想起した記憶、そいうものを忘れて本に書かれた内容を理解することが「読む」こととなったのは、

中学で女の子と初めて付き合った、彼女に「ずっと好き?」と聞かれて「わかんない」と答えて随分怒られたことがあった、一回どころか何回も、今なら彼女のその質問は、わからない未来でも好きでい続けていると思うほど「いま」好きかを聞いていたんだろうということはわかる。だから「うん、好き」って言えばいいのに、それが言えない。わからないことの方が僕にとっては素直なことだった。
週末に二人でどこか遊びに行こうという誘いも「わからない」と言ってた、
親友との遊ぶ約束も好きな子と会う予定も日にちが近づいてくると、その時やりたいことができないというストレスの方が大きくなって、予定があることが辛くなってしまう。
今になっても、喫茶店を始めたときに決めた「10時開店」がどうしても間に合わず、というかいつも同じ時間に開ける理由が実はわからない、時計がなければいつ起きたかでその日一日のやることやる時間はそれぞれ変わる、だいたいそのときそのときで体感する朝や夜の長さが違う、結果として時間があってないようになってしまい、さらにコロナになって時間どころか場所まで、店の間の公園に皆を押し出し、公園が店にではなく、店が公園の延長になっていく始末、

もしかして僕は農耕から狩猟採集へと逆移行したムラブリのような感性の方に親近感を持っているのかもしれない。それがずっと生まれ育ってきた飯田という土地に根付いている気がしていない理由で、つまりルーツをどこまで遡ると今の感性の根源に辿り着くのか、

でも、そうとも限らないかもしれない。むしろ時代によって醸成された感性かもしれない。
土地との結びつきの話は自然、共同体の最小単位である家族のかたちの話となっていき、後藤くんが
「核家族って、狩猟採集民族に適した家族形態らしいからね」
と言った。
驚いたことに、そのときちょうど『森のムラブリ』の、ムラブリたちに自殺が増えた時期があるというところを読んでいて、定住・農耕をするようになることがその要因の大きい部分を占めてい流のではないか、という下りを読んだところだったので、

農の暮らしをしていると家族が少なくなるのは働き手がいなくなることを意味する、苦労が増えるばかりか手が回らなければ作物を収穫、育てることすらおぼつかない。核家族化はおそらく都市型生活の普及と不可分で、例えば坂口恭平さんの『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』を読んだとき僕が考えたのは、この本の中で名付けられた「都市の幸」を飯田という田舎に置き換えたとき何になるだろうということで、それは街のなかではなくその周りにある湧き水や野草、山の獣や魚に他ならなかった。人口10万あまりの地方都市では、その中心市街地にさえ家に使えそうなゴミがないのだ。
ここから推測したのは、都市で暮らす人たちというのは実は農耕民より狩猟採集民に属するのではないか、ということだった。今はその本領、特性を発揮できずに動けずにいる。軽快に移動ができず家賃や仕事に縛られて動けない都市型狩猟採集民と、専業・兼業も人手がなくて少ない幸に喘ぐ田舎型農耕民。どちらも都市型=核家族、田舎型=大家族に合った暮らしをできず、形を拗らせて苦しんでいる、そんな構図が浮かんできた。
そんななかで、ひとつの土地に定住しないで流動的に拠点を移したり増やしたりする人や、逆に田舎の山間地や限界集落に越してきて、血は繋がっていない他人と共に田畑を耕したりスペースを共有する人たちが増えてきていることは、その捩じれた構図から元に戻ろうとする時代的な動きなのかもしれない。

そういう意味では僕も決して、今の時間、場所・空間の影響のもとで思考し、習慣を得ているわけで、でもここまで書いてきて、そうなるとやっぱり余計に飯田という土地に生まれ40年近くここで暮らしているのに、結びつきを薄く感じているのは何故なのか、さらにわからなくなってしまった。
私立の図書館・創造館を作る場所か、自分の生活の場、どちらでも「あ、ここがいいな」と思える土地を飯田の中で見つけることができたら、少しは結びつきを感じることができるのか、
いやいややっぱり、僕自身の身体を観ることでそれを見つけたいと思っているようだけど……(飯田弁が出てこない、というのも、方言は喋っている方にはどれが方言かわからない、という側面がある。自分でそれを見つけるのは難しい)

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