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セザンヌの余白

起きてからずっと、描きたい、と思っているが描かないでいる。またいつものごとく、何を描きたいかわからないから何を描こうか、何なら具象かというと別に抽象でもいいので余計にややこしい、今わたしは何をかきたいのでしょーか?
なので描かずに書き始めている。
書き始めてすぐ、文章ならこうやってできるのになんで絵だとそうしないのだろうか、と問うていた。問うとほぼ同時に答えも出てきて、というか答えの方が先だったくらい。

道具を出すのが面倒くさい。

あー、それだけかも。これ、今こうしてパソコンで打っているパソコンはすぐ机に出してきて、紙も絵の具も筆も、なんなら終わった後の後片付けもいらないのですぐ。

書いているうちに、この書く、というのと描く、ときの自分の違いを思ってみる。文章はもう体裁があまり気にならない。全体のバランス、とか言葉の選び方、とか句読点の打ち方、とかそういうの。絵はまだそうはなっていなくて、僕は色と色の隙間がなくって重ねてしまうので色が汚れる、でせっかちが出て、すぐ仕上げたくなる。途中、時間を忘れると、というのは文字通り、このからだから時間が消えるのだ、没頭とも違う、絵だけじゃなくて周りの物音とかも普通に耳に入っているし、体勢を変えた自分もわかる。2階にいるが1階や外の人間や車の気配も。時間が消える、というより時間の「長さ」がなくなる感覚だ。時間はあるが、それが流れているのとどうも違う気がする。
そうなると描いているのが楽しいときだ、描いたものが上手くないとかいいとかは、それが消えた後に来る。

セザンヌのstudy of treesとか、レ・ローブの丘からのセントヴィクトワール山の絵、描きかけの水彩画みたいなのが気になっていて、最近ずっと眺めていて、描きかけなのか、でもそこでもうとても良いので終わりにしたのかとか、セザンヌの絵は余白があってそれについてたくさん論じられているらしくて、それほどそれまでの絵では余白でしかなかったものを絵の要素として、描かないことで描いた、とかそういうことなのか、その余白が僕も確かにとても惹かれる、でも描きかけに見える絵たちは余白どころじゃない。なのに、それで完成、というか完成というと終わりみたいだが完成と終わりは違う、完成という言葉は強すぎる、かといって終わりにしたって感じでもない、

実を結んだ

そうだ、そんな感じ。絵がそこで一度、実を結んだ。実は収穫された後も追熟したり腐ったり枯れたりする。筆を足す、というのはその何処かに進むことになったり、またもう一度種から芽が出て樹になって再び実を結ぶ、ということにもなるだろう。

筆を置いた絵をしばらく置いておくと、ふと描き足したくなることがあって、そこから続きが来る。文章ではあまりそういうことは起こらない。小説を書こうとして始めた文章には時々それが起こる。たとえそれがたった一文でも、小説を書こうとして書き始めたものにはそれが起こる。今書いているそれは、そんな感じにはなってないようだ。どこが違うかはよくわからない、というか面倒くさくてそれをしてない。

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