M君との対話 No.6 ー 身体と言語、僕の方法

 それで僕は自分の身体を大事にしていて、昔は身体を物差しに入れてなかったんだけど、今はそれなしにはなにも考えられないんじゃないかって思うようになっていて、それこそ作品そのものがそこにぼんっとあって、そこに機能とか合理性だとか、なんのためにそれがあるのかってことが気になってた時期が僕にもあって、その回答を出すためには《体》が必要だったというか、それこそ認識できる範囲のものだけが私ではないって言うか、むしろ認識できていないところでものすごいことの働きかけがあって、自分では気づけない無意識的ないろいろであったりだとか、そうゆうものの全体で僕が成り立っているんだって気がつくともうそれ抜きには語れなくて、それこそ言葉の上での空論の連鎖で終わってしまうと言うか、例えば今はAIのことがすごく話題になっているけど、人間のことがわからずしてAIのことを考えてもわからないんじゃないかって僕は思っているんですよね、今は人間に対する興味がすごく薄いと僕は感じることがよくあって、みんな認識できる狭い範囲のことだけで人間を論じてて、それによってこの社会とかシステムを構築しようとしてるんで、それが息苦しさとかを生んでいるひとつの大きな要因であると僕は思ってますよ、これは前にもした話だけど、僕が駅裏で店をやっていた時に店のすぐ前に公園があって、僕はそこではいはいで四足歩行したりいろいろしてたじゃないですか、その頃に若い女の子がお店に来て、まぁ仕事を辞める辞めないの話になって、それで好きなことやったらって話をしたら、それでもやっぱり生活費も稼ぎたいし、今就いてる仕事は稼げるし、その時は確か2年前か3年前の夏の一番暑い日で、店の中はクーラーがかかってるわけ、だからこうゆう快適な空間もほしいしって話になって、あまり狭すぎる部屋じゃなくて、心地いいエアコンの効いた快適な空間で暮らしたいじゃないですかぁって話して、それで僕は、じゃああそこに欅の大きな木があるでしょ、あそこの木の下に行って30分くらいちょっとそこにいたらって言った時に、その子はけっきょく一時間くらい戻ってこなかったんですよ、あっつい午後に、それで一時間ぐらいしてから僕もそこに行って、そこって一日中けっこう風が吹いていて、木陰でさ、どうって声かけたら、神藤さん、ここは別世界ですねって話して、気持ちがいいって言って、もちろん冷房が効いた部屋よりは暑いんだけど、それで僕はその子に、さっき快適な空間で暮らしたいって言ってたでしょ、その時にこの空間って想像してましたかって話をしたの、そしたらしてないって答えて、要するに体はそっちの方にこそ快適さを感じてるんだけど、部屋が広いとか、エアコンが効いているとかっていうのは体が本来感じている快適さとは別のところのものなんだなって、そうゆうことがあって、僕は快適さとか心地よく生きるってことを考えた時に、それは本当にこの身体から切り離せないものだと思っていて、その欲求は本当に感じているものなのか、それとも概念として刷り込んでいるものなのか、その違いはものすごくでかくて、だから僕はそれこそ《イエの欲望》ってものも含めて、本当はなにをしたいのかっていう自分の欲求を人はけっこう間違えていると思っていて、それを考えていく時に体っていうものが一番わかりやすいんですよね、単純にお腹空いたとか、眠い、眠くないとか、今この場所を快適に感じているのかとか、身体的なそれを満たしたいっていうのが原点にあるんじゃないかって、まぁ、体についてこうゆうふうに考えるようになったのはこの数年だと思うんですよね、それまではそんなふうに思ってなかったんですけど、その前はたぶん言葉についてすごくいろいろと考えていて、

 だけど、言葉に集中していた時期にも体を軸にして文章を書くということはしていましたね、そのおかげで今は誰かの文章を読んでいても気になるというか、なぜその言葉を使ったのかということをけっこう細かく感じるようになって、だから僕は自分が書いてても自分は今この人の真似をしているってことがわかっちゃうんですよ、それは僕の今の言葉で言うと自分の身体から出てきた言葉ではなかったってことなんです、だからオリジナリティみたいなものって憧れがあるわけですよ、なぜこの人はこうゆう書き方ができたんだろうって、読むとその人のものだってわかる文章があるじゃないですか、そうゆうものが好きなんですよね、それでだんだん自分が書いた言葉が窮屈な思いをしているように見えてくることがあるんですよ、それは例えばこの『人は必ず死なない。』の最初の方に書いてあるんですけど、「人は必ず死なない」って一文ってちょっと変なんですよ、「必ず・・・ない」って言い方が変なんです、それは「必ず」って言葉は肯定文に使う言葉で、否定文の時は「必ずしも・・・ない」って使うものなんですよね、だからこの使い方はちょっとずれるというか、文法的な歪さがあるなと思って、でも死というものの僕の実感にはこっちの方が近くて、なんでかと言うと死んだら自分が本当に死んだのかはわからないし、そうすると人は本当に死ぬのかもわからないなと思って、まぁ死ぬんだけどね、ただ「人は絶対に死なない」ってことはもう死なないってことじゃないですか、でも死んでる人はいるし、でも「人は必ずしも死なない」だと片や死ぬけど片や死なないみたいな感じで、その文法に言葉を合わせてしまうと僕のこの死に対する感覚を取りこぼしてしまうけど、往々にして今までの僕は文法的に文章を書いていたから、それで誰かが誰かのために作った文法を用いることによって自分の言葉を不自由にさせていたんだって気がついて、そこから言葉を自由にしていくためにも必要だったのが自分の身体でって話でね、

 それで僕は自分が飽きやすいってのをわかっていて、継続するにはどうしたらいいのかってことを考えたことがあって、それは今の啓榕社を始めて、珈琲の焙煎を仕事にした時に考えたことで、好きでやっているんだけど仕事にして毎日やってたら絶対すぐに飽きると思ったんですよ、でも仕事にしてしまってそれで生計を立てれるようにするでしょ、それでそれ一本で生計を立てているとしたら当然やめられなくなってくるじゃないですか、それは辛いと思って、だから僕はふたつ設計をしたんですよ、ひとつはやめたくなったらやめられる形をとることで、だから僕は基本的にお店に卸さないことにしたんですよ、それをやると注文を受けたら嫌でもやらなくちゃいけなくなるから、それはやめたくてもやめられない状況を自分で作ることになるから、あとひとつはこれを継続していくために毎日はやらないってことにしたんですよね、だから僕は多くても週三日、四日で、最低ここまで稼げればいいって形を作ったんですけど、だから今でも焙煎することは苦じゃなくやれるんですよ、これはある先達の焙煎屋さんにこれから焙煎やることにしましたって挨拶に行った時に、今が一番楽しい時だねって言われて、つまりですよ、その人はもう10年以上やっているわけなんだけど今はきっと前ほど楽しくないんだって思って、それなら僕はずっと楽しいままでいようって思って、だからずっと継続できる方法を探したのもあって僕はやめずに済んでいるんですけど、それこそ絵を一日一枚ずつ描き始めた時も半年くらい経つと毎日描くのが辛くなって、このまま続けたらやめたくなってきちゃうから無理に描くのはやめようって思ったんですよね、だけど逆の方向性もあって、描くのをいったん休んでしまったりすると今度は腰が重くなってくるんですよ、そうするとやりたいのにやらないって気持ちが生まれてきちゃうんで、しかもだんだん忘れてきちゃうんですよね、だからやりたいことがあったらなるべく忘れないうちに始めちゃった方がいいなってのが僕の最近の考え方で、忘れちゃうんですよね、でもそれは頭では忘れているけれど生まれた欲求はたぶん消えてないんですよ、それはまたなにか別の形で噴出してくるんで、それは例えばぐさりだったり、子どもがよくだだをこねるじゃないですか、ああいったものとして出てくる可能性があって、だからそのためにもやりたいと思ったらなるべくだらけないってのも大事だなって、そこは多少の苦しみみたいなものは引っ付いてくるんですけど、あとはできることをできる範囲でやるってのもいいんですけど、ちょっと背伸びしてできることをやるのでもいいんですけどね、


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