読む、という行為が指すものは

本を読む読まない、の話が1日のうちで2回も出たのは、珍しいことだった。
僕がやってるのじゃない読書会の話になり、カウンターの隣同士で話していた内容が僕に飛んできた。「神藤さんは、人生で何冊くらい本を読んだ?」
何を聞かれてるのかよくわからない、というのが正直なところで、だから応えようとすると頓珍漢にならざるを得ない、まず
本はなんでも本なら本として聞いているのか、「漫画は?」「んー、抜きで」
なぜ漫画は本から抜かれがちなのか、雑誌を本とする人も少ない、そういう人は文芸誌も本のもとでもあるけれど本ではなく雑誌にする、新聞はどうだ、
僕は生まれてから多分一度も新聞を読んだことがない。あったかもしれないけれど、それこそバサリバサリとめくって見出しの大きな文字を「読」んだら、あとは小さいのは「読んだ」というより目を通した、

目を通してるだけのものがとても多い。最近、喫茶店でちほちゃんがよくやってる、国語の授業で五十音の形とその発声を覚えたから文字の並びを紙の上に描かれ形としてでなく音も伴った、言葉、として意識する前にもう認識してしまう状態、あれを読んだというのなら読んだ本の数は増えるけれど、それを読んだ、とは言わない。それは目を通した、だ。
それで言ったら、一冊の本の、一行も目を通すことなく、読み通した、という本があったかな。多分、ない。すると答えは0だ。
でも、そんな答えは望んでいないこともわかる。でも、読んだってどういうことなのか、なぜ漫画は抜きなのか、もっと言えば僕は生まれてから新聞に目を通したことすら、ほとんどない。ネットニュースはTwitterとかで誰かが添付してるのを見たことはある、あれらは本か?
あれらも読む、に含んだら僕の読書量は一般の人よりも多分ずっと、少ない。
そもそも、人生で読んだ本の数が重要な場合ってなんだろう。幼稚園の頃に読み聞かせをしてもらった絵本は、数に入るだろうか。
なので、答えは必然的に頓珍漢になってしまう。あるいは、多分相手が期待してるよりずいぶん長いものになる。

男がなぜそんなことを聞いたのかは、二度目の、別の人がした本を読む読まないの話で、見当がついた。
「小説家になるために私がしたこと、みたいなのがのってて、そこにI(作家のイニシャル)が」
最近買った文芸誌にそれが載ってたという、「本(ジャンル、だったかもしれない)を、1000冊読んだら自然と書けるようになりますよ」と言っていたらしい。
多分、それなのだ。

人がその人の必要でもって生まれたものを、ここでいう必要とはのっぴきならなさとか、どうしようもなさみたいなものなのだが、その必要を別人のわたしが?
1000は、そういう個や特殊を集めて「標準化」する、「標準化」は数が多い方がその精度が高くなる、と思われているからだ。
言いたいことはわかる。前の投稿で書いた、小説という言葉すらなかった時代に小説を生み出したとしたらそれはものすごいことだ。しかし小説だってたった一人の人間から突然、今か昔の時代の人々が「小説」と名指すもの(それは時代によっても変化してきているのだから、そういうところからも「小説」は固定した何かを指差して言えるものではない。だからこそ一人ではジャンルが生まれないし、その個人名がジャンル、とされる)が生み出されたわけじゃない、そうではなくてまだルールも判然としない、手探りで、自分が何を、どう書きたいのか外側ではなく自分の内側(そこを内側というとして、感覚的には実体がある外側と実体がない外側、の違い)に探るしかない状態。それが小説を形作ってきた。これは僕が小説をわかってるとかではなくて、何だってそうだと思っているのだ。
なのだから、そういうものはどうしたってその時、その人にしか当てはまらない。1000冊読んで自然と書けるようになりますよという人は作家かもしれないけれど、書かれたものは小説ではなく、小説「だった」ものになる。
その文芸誌では他の作家が、今は〇〇の書き手が手薄で出版社は書き手を探してるから、これから書く人は(そうだ、その特集はこれから「新人」になろうとしてる人に向けられたものだった)〇〇を書くのがいい、と言っていたのが書かれていたそうだ。

【 本を読まない読書会 】

を始めて8回目くらい、それまで躊躇してなかなかやれなかったが、本当に本を開いて読むことを一切しないまま、ただ手に取ったときに自分の身体に起こる変化だけに注目してもらう、という読書会を思い切ってやってみた。事前に、僕が試してみて変化がわかりやすそうな7冊くらいを会場となる個人書店に持っていって、それらを参加者に手に取ってもらい、感覚の仕方に慣れたところでその書店に並んでる本から、その方法で本を選ぶ、というもの。
私たちは、自分自身の感覚だがいつも全てをちゃんと感じられているわけではない。それどころか、いつも殆どを閉ざしている。閉ざすのは感覚のほうではなくて、それを受け取ったとする「わたし」の方だ。なので本を持ったときには必ずある作用が、本に限らず、身体には起こっている。身体、感覚、わたしはつまりそれぞれ違うものを指している。

参加者の一人は
「色が変わった」
と言った。持つ本によって、視界の色に変化が起こっていた。僕は今まで色に着目したことはなかったから、その飛躍に驚いた。それで自分でも試してみた、
例えば『洞窟おじさん』(加村一馬)は明るい、ちょっとうんちみたいな黄色で、でも軽い色をしていた。『月光・暮坂』(小島信夫)は青が混じった重めの暗い緑色の気がした。持ってもらったら、その人も大体同じ色を観た。その人はどちらも本を開いたことすらなく、僕は小島信夫だけは何度も読んでいたが、色が変わった、と思ったことはなかった。

もう一人は、
「ごめんなさい。これとこれは、近くはちょっと、離してほしい」
と言った。『地震イツモノート』(地震イツモプロジェクト・編)と『家の中で迷子』(坂口恭平)。そのどちらも、この人は初めて見たもので誰が、どんなことを書いたのか知らない。

読む、というのが文字を追うことのみを指すのなら、これらは読書ではない。
読む、というのが書かれた文字を追って作者が書いたことを理解することなら、これらは読書ではない。




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