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想像する、 妄想しない。

妄想することと、想像すること。

3年くらい前まで書いてた『世界と繋がる芸術論』を書いているときに想像と妄想・空想が違うものであることに気づいた。僕はそのとき、想像力は人間だけに備わった能力ではなく、人間が人間になる前、まだ他の動物、生物と同じ動物だった頃から持っていた能力が人間になった都合に合わせて変化させてきたものに違いない、だから他の動物も想像力は持っている、と知った。何で知った?といえば僕が勝手に閃いたのだから知ったはおかしいか、おかしくない。
想像力は、他の生き物が当たり前にしている他者と自分との境目の薄さ、それが人間になって「わたし」が出しゃばってくるにつれて薄れていった自分の中にもある他者(これは同じ種の生き物に限らず、水とか空気とか遠く離れたところとか、環境と言い換えることもできる気がする)との繋がりを作る能力のことだ。
だから自分勝手に世界を改変すること、自分の都合で他者を決定すること思い描くことは想像じゃない、それは妄想だ。

そうして武術の稽古会に参加したり、身体を観てくれる人がその都度現れるなかで、誰もが皆整体というとき普通イメージするような骨ポキポキとかではなく、僕を見た途端に「右足の小指が浮いている」「肝臓のとこが赤い」「右首肩にお化けがついてる」とか言う、それもかなり細かい精度で、しかも僕のことを目で見てない時すらある、そんなことをしてるうち、

想像と妄想、この二つの違いが今の僕なりに、僕なりにと言うのは勝手にということではなく今の僕が感覚できる程度の深さで、だから確かに違うがもっと深く観えるようになったとき、あれは想像だった、これはまだ妄想の類だった、あれはそのどちらでもなく別の現象が場によって齎されたものだった、なんてことになっていくだろうが、それでも明確に想像と妄想は違うという基本的なことだけは、知識でなく感覚や身体的な現象に会うことでわかることができたのは、とても大きい。これはとても重要なことだ、とにかく皆にも知ってもらわなきゃと思うようになった。

この二つのどっちをしてるかによって結果がまるで変わってしまう。結果って言いたくないな、でも確かに普段から人は色々と試している、その連続で生きてる、やり直しはきかないのに試さなきゃわからない、同じことでも都度都度それは新しい、一回きりのことだ、練習であり本番。しかも私の人生は有限だ、やり直しがきかないからこそ何を試すかは選びたい。
そこからすでに、妄想か想像かで何を取るかが変わると言ったらどうだろう?
何を誰から学んだらいいか、何を考えてどう行動したらいいか。自分のことだけじゃない、誰の言ってることは嘘なのかそうじゃないのか、
(本人は本気だけど見当違いなことだってある。それも含めて嘘、だから今僕がこうして書いてることももしかしたら嘘なのか、それとも方便なのか?妄想じゃわからないけど想像できればそれがわかるはず)
言葉の意味をどう捉えようが、そこに現象として起こる二つの違いは明確なのでやってみりゃ一発なのだけど、中には本人の身体でやってみせても起こった現象を疑う人はいる、
入り口としてわかりやすいかなぁとあえて言葉で説明しようとしてみたとき
ハタと気づいた、

妄想と想像の違いを、もしかしたら想う内容の違いだと思ってないだろうか?

僕自身が多分そうだった。
どんなことを思い描くか、
3年後に本州が半分に分かれる線でM7.8を超える巨大地震が起こる、本当に島が半分に割れて海の水が流れ込んでくるなんてことはない。そういう夢なら何度か見た、南アルプスと中央アルプスに挟まれた伊那谷はまるごと水の底で、僕らは南アルプスの手前の伊那山脈のてっぺんあたり、大鹿村の集落の坂からそれを見てる、アルプスはどこも標高2,500とかを超えてるのもあるからすごく高い、本州が割れるならアルプスが終わってから、だから諏訪湖とか、でも海水が流れ込んで一つが二つになったりはしない、ところどころ数メートルの段差にはなったりする、そこからなぜか気候は今までより少し安定した、異常気象という言葉が嫌いだから使いたくない、最近の暑い寒い大水や旱が少し昔に戻ったようだった、それも人間がまた活動するまでの間。2020年の初夏の光景はいまだに覚えている、あんなにアルプスが綺麗に見えたのは記憶になかった、子供のときはまだあんなだったかもしれないが子供だからいちいち景色なんて気に留めてなかった、僕より30は上の人間に聞いてみたが誰も正確なことは覚えてなくて、それこそ思い出すその光景が実際に澄んでいたか郷愁と願望で澄ませているのか本人にもわかってなかった。生活は一気に、手に入る食品や日用品の品数は激減した、お金が入ってくることも難しくなっていた、でもそれが震災による一時的なものなのか国とかの経済が破綻しつつあるからなのか判断できなかった、判断するべきことまずやるべきことは他に山ほどあった、地方でぽこぽこと独自の経済圏生活圏が現れていくかと思ったらそうでもなく、中央の中央への集中は中央になるところが置き換わって、集中への締め付けは一層強くなった、幾らか多くはそれに従うべきか自活するか悩みながら、もっと多くは考えないでいた、中にはなぜかパァッと頭が上に開いたみたいに活性化して活発に活動を始めた人もいた、みんな世界の色が一気に増えて華やいだように見えていた。

これは妄想か、想像か?
妄想です。想像するのは慣れるに大変に根気がいるし持続するのも難しい。が、言わなきゃ読んだ人も宇宙人とか自分より高次元の存在を信じてるなら想像だ、ととるかもしれないし、そういう占いとか未来予知は非科学的だとうんざりしてる立場の人からしたら妄想、になるかもしれない。でも想像か妄想かは、自分が信じるもので変わるようなものじゃない。
想像は、言い換えれば直観のことで、さっき嘘かどうかって言ったけど、自然は嘘がつけない。言葉は嘘つけるけど、身体は嘘つけない。だから自分が思い描いていることが想像か妄想かは頭で判断してもわかんない、身体に聴くほうが間違いない。たぶんほんとに小さい子供は想像できてる、ときどき驚くことを口にするし、背中に目があるみたいだ。裸足になって棚田や山林を歩いてみたら、地面から突き出ている折れた花の硬い茎や尖った木の根を足は指の間に通して踏み抜かないように勝手にしていた、こんなことを言ってもやったことない人は誰も私たちにそんな能力があることを信じない、幼稚園の遠足で芝の公園まで来た幼稚園児に「靴履かないといけないんだよ」とまで言われる始末で、先生は笛をかん高く吹いて、子供たちをわざわざ整列させていた。邪魔するのはルールや常識、ルールも常識も観念だから観念、観念が邪魔をする。
どんなことを想うかの違いではない、観念を働かせないように注意して、すぐに頭はこうかああかと考え出す、言葉にするのが悪いんじゃないが言葉は特に観念に取り込まれやすいからまずは言葉にするのを抑えて、言葉になって出てくるのは構わない、でもまずはやっぱり言葉を置いておいて、つまりすぐ判断したり枠にはめ込むことをしないよう、
味わう。味わうことはその瞬間瞬間にいることだ、そうしなければできないことだ。自分が何を受け取っているか、何を観ているか、何が浮かんで、何に反応しているか、何を置いておく。ただ受け取り、浮かぶままにそれを観て、反応する様(さま)の直中にいてみる。それを外に向けてやる。それが想像。妄想は外界を遮断している、いや今味わうことは今ここに集注することだと書いたばかりだ。妄想は今ここを遮断している、今でなく未来やここでなく遠く離れているどこかであっても、今ここにいなければ何とも繋がらない。だから「世界と繋がる」なのだった。



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