M君との対話 No.4 ー 作品の印象、洗練の危うさみたいなの

 それでまず前提として、今、僕はなにかに触れる時、絵だったら絵を見る時、文章だったら文章を読む時、僕はなるべくその対象を主体にして解釈とかをしないようにしていて、それに触れた時の自分の感覚を、その時に湧き起こってくる記憶だったり、ひらめきだったりとか、そっちの方に主軸を置いてるんですよ、言ってみれば南方熊楠が言っていた物と心が出会って事が起きるっていうところの《事》に注目しようとしているので、それをまず前提として今日は話をしたくて、だから感想でもなんでもないかもしれないですし、むしろ話はどんどん飛んでくかもしれないし、そもそも僕は本が読めないんですよ、ほんとに、飽きちゃって、読んでても思考が上滑りしていくんですよ、ただ文字が目に入っていただけみたいなことがすごく多くて、それでおもしろい本だと逆にどんどんイメージだとか記憶が湧いてきちゃうからストップしちゃんですよね、だから本があまり読めないんですよね、

 そのことが前提にあって、まず最初に読んだ印象は、重たいって感じですね、その重たいってのは感情とか情感としての重たさではなくて、ほんとに、動きにくさとかの、重さを、ほんとに物理的な重さの感触と思ってもらっていいけど、重たいって感じがあるのが一番最初ですかね、それでおもしろいことにちょっと逆説的に聞こえるんですけど、僕、Mくんの主に《手紙》を読みながら思ってたことが、それこそ最近そのことについて考えていたんですけど《洗練》についてだったんですよ、《洗練》っていうものが持っている危険性じゃないけど、ある種の洗練さって権威とか権力と容易に結びつきやすいなぁって、ヒエラルキーを生み出しやすいなぁって思っていて、それで洗練さっていうものにも方向性があるんだなって最近気がついて、普段言われてる洗練って技術の向上だったりするけれど、そうゆうものって先鋭性を生み出しやすいし、その人にしかできない専門性ってものも生み出しやすい、洗練させていくこと自体が目的的になるっていうか、そうするとMくんがすごく問題にしている作品であることの他に存在の合理と機能を持たないものに対する抵抗感って、けっこうその洗練ということと結びついてくるんですよね、僕がそのことについて考えるきっかけになったのがメキシコ文明についてのTwitter上のトークで、それをたまたま聴いたんですよ、それでメキシコ文明って2200年間も続いてたそうなんですね、それでメキシコ文明はずっと可愛いままだったって言うんですよ、要は技能とか技法が洗練されてないんですよ、それで2200年のあいだ動物はずっと子どもが描いたような絵だったりし続けて、可愛いまんまでい続けていて、それでなんでメキシコ文明が2200年ものあいだ続いたかって言うのは恐怖政治ではなくて、洗練以前のまま人々の驚きと歓喜を誘発させることで続いてたって言う話をずっとしてたんです、それでヒエラルキーって恐怖とかと結びつきやすいものと思われていて、僕は洗練もそうゆうものと結びつきやすいと思っているんだよね、それでこれはまた別の話なんですけど、エヴェレットっていう言語学者が本を出したんですよ、それは深い森に暮らしてる狩猟採集民族の話なんですけど、装飾品とかがあるんだけどそれがぜんぜん洗練されてないんですよ、そのへんの石とか枝とかを拾って結びつけてだらっと懸けただけみたいな、装飾性が一向に洗練されていかないんですよってことが書いてあって、それを読んだ時にも僕はそうゆうあり方ってのがあるんだなぁって思って、それで多くの人には洗練を志向するってのがあると思うんですよね、絵を描き始めた時はへたでもいいけどあるところまで来ると飽きるじゃないですか、飽きない方法として壁を設定していることもあるし、劣等感がそうさせる場合もあるし、充実した意欲がそうさせる場合もあるけれども、飽きて洗練を志向したらどんどんどんどんうまくなっていくわけですよね、それはまた他者評価とも結びついていくんだろうけど、もうどんどん洗練されていって誰でも作れるものではなくなっていくってのがあって、それこそ家を建てる時の大工の技術とかもそうですよね、でも生き物にとって家ってまず必要なものにもかかわらず僕たちって家すら建てられないじゃないですか、と言うか建てられないって思ってるじゃないですか、それでその時に想起している家は大工さんたちが持っている技を使ってほぞを組んだりだとか、柱を立てたりだとか、いろんな構造を組むことで作る建物になっちゃってるけれど、変な話、森の中に入ってその夜をなんとか過ごそうと思ったら、倒木とかから木を拾って組んでみたり、木の皮を剥いで乗っけてみたり、葉っぱのついた枝をいくつも重ねて屋根にしたりだとかすることもできるわけじゃないですか、だけどそれをしない、今の家っちゅうものは家を建てる専門家が作るものだって思っていて、それも僕はひとつの洗練だと思っていて、それはやっぱり技術と言うものは自分にはできない特別なものであるという考えを生み出しやすい、そうすればヒエラルキーが生まれて管理はしやすくなるし、支配もしやすくなるけど、僕はそうゆう人間ってものを最近疑問視し始めていて、なんで洗練する必要があるのかなぁとか、洗練にももっと別の方向性があるに違いないとか思ってるんですよね、

 じゃあ《解体日誌》の中のMくんがその洗練の危うさに足を取られていたのかと言うと、まぁそこまで僕は読めてないと言うか、さっき言ったみたいにどんどん自分の中で勝手に思考が進んでっちゃうから、Mくんの言葉がきっかけで今も僕のこういった言葉が生まれてるだけで、Mくんの文章が本当にそうであるかって言うのは僕はわからなくて、だから批評とか感想にはなり得ないかもしれないんですけど、でもやっぱり文章自体が、ある人にはうける文章だと思うんですよ、この言い方が適切であるかはわからないけど、文体というか選ぶ言葉の繋がりがうまいなって思うんですよ、特に自分の心情だとか、見てる景色の描写とか、でもその洗練さがMくん自身が求めているものなのか、あるいはそうゆうシステムが僕たちを誘導した結果のものであるのかもしれなくて、それは読みながら僕がずっと思っていたことですね、それでこの中にはある問いがいくつか根ざしていて、Mくんはずっとそのことについて何年かかけて考え続けていたと思うんだけど、それはその言葉の使い方というか、構造によって生まれた問いである可能性もあるんじゃないかなぁって、それで僕が自分で書いた芸術論の中で一番大事にしていたことは、答えを出すことよりもその問いは本当に問うべき問いかってことだったんですよ、その結果として芸術というものについてほとんど考えることがなくなって、創造することとはなにかっていう方向に向かっていったんです、だから、なんだろう、自分の中に湧いてくるものが本当にその言葉で適切に表現がされているのかってことと、あと僕たちは言葉によって思考を誘導されているっていう側面も絶対にあると思うんですね、それこそその芸術論に書いたんですけど、ジュデク語っていう比較的最近発見された言葉があって、マレーシアかどこかの言葉なんですよね、その言葉には《所有》とか《競争》とか、そうゆう概念の言葉がものすごく少ないらしくて、代わりに《共有》するとか、そうゆう語彙がものすごくたくさんあるって話で、性別間や人種間の争いも少ないらしいんですよ、つまりその人たちの感性が言語を生み出すと同時に、その言語によって世界の見方も規定されているんですよね、だから言葉によって思考も規定されうるなってのは読みながら思ってたことだね、それはあるかなって、


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