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世界と繋がる芸術論 9+10

   世界と繋がる芸術論 9

前回の最後の段落で、
「僕は植物のような知性を持ちたい、そのためには、想像力が大きな助けになるはずだという確信はあるんだ。」
と書いたときは気恥ずかしいことでもバシッと言いきる格好良さみたいなのに満足もあったのだけど、日を追うごとにただ勢いで書いたという印象が強くなっていって、そこがわだかまりのようになってしまい、一ヶ月何も進まないまま過ぎてしまった。
他者や世界と結びつくには想像力がなくてはならないのは間違いないのだから、問題があるとしたら「僕は植物のような知性を持ちたい。」のほうだ。でも、これのどこがいけないのかわからない。もう締切の日だ。

で、結局書けないまま、保坂和志『書きあぐねている人のための小説入門』の文庫あとがきの創作ノートを読んでいたら、友人Kであるところの哲学者・樫村晴香との会話が書かれていた、

『この人の閾』(注・九五年芥川賞受賞)は八月四日にワープロ稿として完成する。その直後の八月七日の夜、私は久しぶりに樫村と電話で話をした。私が樫村に、「イルカの知性は禅の高僧と同じようなものなんじゃないか。コンピュータが扱えなくても、高層建築を建てられなくても、そんなことは本当の知性とは関係ないことなんじゃないか」と言うと、樫村はしばらく絶句したあとで、「それはつまりバカということなんだよ」と言った。

というここを読んだ瞬間、身体が球のように弾んだ。
「植物の知性を持ちたい」じゃ駄目だったのだ。勢いで書いてしまったせいで、この部分が自分が本当に望むことの正確な表現になっていなかったから、一ヶ月もモヤモヤし続けていたのだった。
「自分が考えていることなのに、自分でわからないの?」と思う人もいるかもしれないけれど、そうなのです。第四回にも書いたように、人は言語に引っぱられて認識や思考が大きく左右される生き物なのだ。

まず、知性と知能の違いをはっきりさせる必要がある。ネット辞書で調べてみると、

知能 = 明らかに答えがある問いを解決する能力
知性 = はっきりとした答えのない問いを解決する能力

ということらしい。この区別で分けるなら、AI (人工「知能」)は計算には非常に長けているが、「生きるとは何か?」などの問いに答えることができない。
かたや植物はどうか?彼らは算数の計算はできないし、空気中の成分が何なのかも知らない。でも、生き残るために周囲の環境に対して常に思考し行動し続けている。第七回に登場した植物学者ステファノ・マングーソは知性を

生きるために問題を解決する能力

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