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とんでもないことでございます

とんでもない、は「とんでもない」それひとつで名詞として成立するので「ない」を変格するのは誤りだ。
「とんでもない」を敬語にするなら「とんでもないことです」が正しく、さらに仰々しくしたいなら「とんでもないことでございます」と言い換えるのがよろしい。
申し訳ありません、は「申し訳」が名詞なのでここに付く語尾を「ありません」にしてもよい。
さらにかしこまりたいなら「ございません」でもよい。




自分の起こした火種に言い訳しようがなく(申し訳が立たない)、またそれはあるべきことではない(とんでもない)。
これを伝えたいなら上記をそのまま引用して「とんでもないことでございます、申し訳ございません」になる。
日常的に使うことはない。使わないように過ごすに越したことはない。

上記はだいたい「謝罪」の話だ。
社会に出てから行うそれは口先ばかりでは済まされず、失態の後片付けまでがセットである。
謝罪の冠としてよくくっついてくる「誠意」のワードについてはまあいいとしよう。
誠意なんてものははじめから見せるべき態度であり、そんなものはカードのひとつにもならない。
そこから先が大体わからない。

頭を下げて終いになるなら世の中は非常に簡単である。

責任の所在を明らかにし、然るべき対応を取るまでが謝罪だと思っている。
この「然るべき対応」ってなんなんだ。
どれだけ決裁権があるかか?

この失態の後片付けの方法がいまいちわからないままただ年月だけを重ねてしまった。
「責任を取りたくない」は「責任の取り方がわからない」とほぼイコールであり、よくわからない他人のために頭を下げることも極力避けたい。
そんなことをなんとなくで乗り切ってきた。ちゃんちゃらおかしい。

また、これは口を酸っぱくして言うが「大丈夫?」と聞かれたとき、およそ人間は「大丈夫」と答える。
「大丈夫かどうか」の判断の先には形容しがたい問題が起こっており、その説明も面倒で、他人の手を煩わせるなら自分で抱えて処理した方がいいと思うからだ。

大丈夫じゃなかったとしても「大丈夫」の撤回ができない人間もいる。
頼るべきときに他人に頼れない人間はいつしか破綻する。
そして幾許の猶予もないまま破裂し、しばらく取り返しがつかない状態になる。

あーややこやや。
これはしょうもない人間の一歩である。


車に轢かれそうだったり上から鉄骨が落ちてきそうな危機的状況にて「危ない!」と注意喚起をしたときに、言われた対象は「何が危ないんだ?」と一瞬なりとも逡巡する。
「何が?」と思う、その一瞬が命取りである。
私はこの「危ない!」の察知能力が極めて低い。
日常生活で他者に対して「あなたの状態は危ないよ」なんて助言をしてくれる友好的な方はそういない。
いたとてごく少数で、その人たちの話を聞くには自身の正常性バイアスが阻んでまた「大丈夫」とかなんとか言ってしまっている。
そして物事を把握する頃にはもう手遅れ、がままある。

俯瞰的な危機管理能力が低いため、立ち止まって考えたときには大体遅かった。
立ち止まる判断も遅く、考えるまでも遅い。


とんでもないことでございます、でも大丈夫です。ほんとうは大丈夫ではないですが大丈夫です。大丈夫と言っておきながらとんでもないと言ってしまい申し訳ございません。


すべて断言するにはぼんやりしていながら、何かしらの破綻が起こるかもしれないなあ、とさらにぼんやりしつづけている。
およそ脳内に存在し得る「言語の引き出し」から正しいと思われる言葉を拾うことがままならず、そのうちその引き出しすら忘れてしまい、自分が愚鈍になったような気持ちになる。虚無だ。

虚無を与えられる。引き出しの減少と共に無を得る。
知らないことを知るのとは訳が違う。喪失だから。
これはとんでもないことである。
私にとってその「とんでもない」は、あるべきことではない。

反射的に口から出る「大丈夫です」の解像度を上げ、表現方法を省みる必要がある。
他人から見て「大丈夫?」と聞かれている状況は客観的に見たときにおそらく怪しく、ほとんど大丈夫じゃない。
今の私は大丈夫か?

大丈夫じゃないです。
とんでもないです。

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