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ものを「観る」ことについて

「感想こそが立派な鑑賞」。

「暗夜行路」を代表作とする作家である志賀直哉氏が美術鑑賞について語った言葉だ。いまでも心の中に残っている。

作品を触れたことによって得た感想から批評をしたくなったり、作品から推測した意図を、備忘録として残したかったという意味を含めてこの文章を書いている。
美術にだけ関係する言葉ではない、すべての創作物に通ずるものだろう。

志賀氏の分からないなら分からないままでいいのだ、といった姿勢は非常に寛大で懐の深さを感じさせる。
しかし、私には無理に分かろうとすることは芸術を愚弄するのと同じであると言っているようにも聞こえた。
更なる言葉にはっとした。

「美術を好きになるのはいいが、通がる興味が主にならぬよう注意する方がいい」。
この文句は警句として重く、また響くものだった。
知識に頼りすぎるとそれはフィルターとなる。そしてそのフィルターは己の主観と知識とで綯い交ぜになる。
結果として雁字搦めになって多大な影響を形作るものになり、素直な感想を邪魔してしまうということだろう。
自分の実感を確実なものと認識してこそ、良い作品に巡り合えたときの感動は増す。
感動に言葉は必要なく、そこに存在するのは絶対的な自分の感情なのではないか。
溜まりすぎた知識は耳垢となってしまう場合があるので、薀蓄を垂れる前に、自己満足に使われるために作者は作品を生み出したわけではないのだと思い返したほうがいい。

鑑賞とは何か、それは作家のひとつの元体験である作品を追体験することである。
この考え方が己の中にすとんと腑に落ちた。
段階を踏んで、作品に込められたコンテクストを理解していくことで作者の背景を見つめていくのだろう。
そうして自らの考えをも自覚する作業の必要性を見出していく、それこそが鑑賞の第一歩なのだと私は思う。
ものを知って、その系譜や文脈を追うことは楽しい。広くシーンを見渡すことで新たな気付きも得られる。
そして、前述の「感想こそが立派な鑑賞」に立ち返る。

すべての作品に敬意を込めて、また作者に敬意を表していたい。

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