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好きな夫の匂いがつらい【妊娠初期】

発覚

どうも調子が悪い。

1週間ほど微熱が続き、ときどき猛烈な眠気を感じた。

「・・・そういえば生理も遅れてるな」横切った思いを「いやいや、まさかね」とすぐに打ち消した。たぶん、怖かった。もともと夫婦ともに授かったらうれしいし、授からなかったらふたりの暮らしを楽しもうというスタンスだった。スタンスだったけど、いざ妊娠の可能性を目の前にすると、しっかり動揺した。母になることが想像できない。フリーランスになって2年。仕事を頑張りたい時期でもあった。

ちょうどその頃、離れて暮らす姉から電話があった。姉は子どもふたりを育てながら働いているから、常に忙しそう。互いに電話をしようと思うのも、その電話がつながるのもめずらしい。「元気してんの?」「元気なんだけど最近なんか変で・・・ゴニョゴニョ・・・」すぐに検査薬を買って検査せよと言われた。わかってる。私も薄々そうした方がいいだろうなと思っていた。でも勇気が出ないのだ。陰性だったらそれはそれで拍子抜けしそうだし、陽性だったらもう、どうしていいかわからない。32歳にもなってなんの覚悟もできていなかった。

電話から数日たった夕食の後、買ったばかりの妊娠検査薬をテーブルの上に出し、見つめて30分が過ぎた。「妊娠してるかもしれない」夫に告げる。「ご懐妊?!」妻の妊娠になぜか非常に丁寧な返答があった。「今から検査するからね」「う、うん」「妊娠してたらどうする?」

どうするもなにも全力で育てるのだけど、聞かずにはいられなかった。ほんとうは、「うれしい?」って聞きたかったのかもしれない。「うれしい」って返ってくるのがわかっていても。「そりゃうれしいよ」と夫は口では言いつつ、顔には大きなとまどいが浮かんでいた。

「ンンン・・・やっぱり明日の朝にしようかな」と言ったものの、いざ検査薬を前にして翌朝までなんて待てなかった。意を決してトイレに向かう。3秒とたたず陽性の線がくっきり現れた。ワーオ。夫婦ともに喜び2割、驚きと不安が8割のリアクション。翌朝、一緒に病院に行った。診断結果は、妊娠5週目。エコーにはベビーの卵が映っていた。

お腹の中に、自分とは違う命がいる。不思議だった。

生きているだけで疲れる

翌週から食欲が落ち、気持ち悪さを感じるようになった。何をするのにもいつもの3倍の気力がいる。洗濯機に服を入れる。その途中で一度椅子に座る。干すときもまた休憩。

だんだん布団から起き上がれない日が増えた。空を見る。ネットフリックスをぼんやり眺める。ふと、ひとりだなぁと思った。そんなことないと頭ではわかっている。でも仕事も家事も思うようにできず、外出がままならないから友達にも会えない。とにかく一日中吐き気があって気持ち悪い。終わりが見えなかった。

食べられるものがコロコロ変わった。夫はこれまで以上に家事を引き受けてくれ、「〇〇なら食べれるかも」「△△を買ってきてほしい」という唐突なリクエストにも、嫌な顔ひとつせず応えてくれた。そうして買ってきてくれたものも、いざ目の前にすると「ごめん、やっぱり食べられない・・・」となることが多々あった。もはや自分がわからない。

冷蔵庫の匂いがダメになった。料理の匂いも。湯気の立つ料理は特にダメだった。ご飯も味噌汁も肉も魚も食べられない。トマトとヨーグルトと数種類の果物だけが、吐き気がある時でも口にできる頼もしい味方だった。

食べると気持ち悪いけど、空腹を感じるともっと気持ち悪い。食べ物以上に、水分全般を受け付けなくなったことがこたえた。水もお白湯も気持ち悪い。唇はかつてないほどパリパリに荒れ、ひどい便秘になった。

歯を磨くと、えずいて吐きそうになる。つわりで歯磨きが苦痛になるなんて知らなかった。

特定のハンドソープや洗剤の匂いに吐きそうになる。ついには隣にいる夫の体臭も気になって眠れなくなった。夫が臭いわけではなく、妊娠による変化で私の嗅覚が敏感になっていることを、言葉を選んで伝えた。夫は悲しそうに頷いた。

何もしていなくても疲れ、寝ても覚めても気持ちの悪い日が数週間続くと、精神的にもまいってくる。妊娠中はホルモンバランスの変化でメンタルにも影響が出ると聞いてから、驚きはしなかったけど、ほんとに些細なことで悲しくなってボロボロと涙が出た。

つわりの間、一度だけ夫に怒ったことがある。
つわりのピークと年末年始が重なり、夫が連日の飲み会の果て泥酔して帰ってきた日だった。「俺が楽しく酔っ払って帰ってくるのが嫌なの?」そうじゃない。そうではないが、頻度と加減ってものがあるだろう。「1週間でいいから変わってくれ」と本気で思った。

2カ月がたち、つわりの終盤になって少しずつ食べられるものが増えてきても、出汁や麺つゆを使った和食、キムチ、ニラ、ニンニク、ネギなど匂いの強いものは相変わらず吐き気を催した。妊娠前はむしろ好きだったものたちだ。

あらゆることへの興味と好奇心が低下した。仕事柄致命的じゃないかと思ったが、焦りすら感じることができず、モチベーションは静かに低下していた。さすがに「このままやる気が戻らなかったらどうしよう」と不安になった。

「妊娠 やる気 でない」と検索窓に打ち込んだら、「今は期間限定で"ヤバい時期"なんです。臓器、つくっちゃってますから」みたいなことが書かれてあって、それもそうだと少し気が楽になった。期間限定でヤバい時期なのだ。お腹の中でベビーは日に日に人っぽくなり、ものすごい勢いで臓器をつくっている。安心して、布団に潜り込んだ。

夫に「生きているだけで疲れる」と訴えたら、「俺はナナさんが生きているだけでうれしい」と返ってきた。会話は噛み合っていないけど、まぁいいかと心が軽くなった。(妊娠中期編につづく)


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