暮しの手帳・下書き
自分が暮らす場所は長野県の東端。
そして自分が暮らす村からそう遠くない場所に、避暑地・別荘地として有名な軽井沢町がある。
新型コロナウイルスが騒がれ始めてすぐに、県内・近隣在住者の目線からすると軽井沢、どうなるのかな・・・というのはあった。
人口密度の高い、感染リスクの高い場所を避け、出来るだけ静かな場所でこの騒ぎをやり過ごそう。
そう思うのはごく自然なことだと感じたからだ。
実際、そんなことを口に出してみたことがある。
自分はそれを・・・この騒ぎをやり過ごすために自分が持つもう一つの場所に移動しやりすごそうとすることを一概に否定できない、と。
すぐに、激しく否定された。
そんなことを言ってはいけない。そんな動きは否定されなければならない、と。
実際に、その動き・・・人口密度の高い場所から離れようとする動きは起きた。自然なことだと今でも思う。
その影響で感染が増えたのか、抑えられたのかはわからない。
自分の意見がどうか、自分の意見に対する否定がどうか、ということでもない。
ただ未知の状況が人の判断を狂わせてしまうのだな・・・という印象だけが残った。
自分が暮らすのは人との接触の少ない、特に観光地でもない小さな村。
そのせいか人の流れも、人との接触も少なくこの騒ぎをやり過ごすことができた。
ぼんやり眺める首都圏中心の全国ニュースには「リモートワーク」という言葉が行きかったが、この山間地でリモートでできる仕事はほぼなく、またそれができるなら最初からそうすればよかったじゃない、ムダが多かったんじゃないの?なんて意地の悪い思いもありどことなく温度差は最初からあったのかも。それだけに先の自分に対する否定の意見に対して驚きが大きかったのかもしれない・・・と後から思い当たった。
それと同時に暮らす環境、大事だな・・・とも思った。
さらに、タイミング。
中年という時期に心身とも安定している時期にこの騒ぎを迎えた自分は、比較的幸運だったのだと感じている。何事も距離を置いて冷静に接することができた。
対して、いわゆる青春という時期をこのタイミングで迎えた若者たちはやはり可哀そうに感じてしまう。
それでもこの山間地の若者たちは人の密度の高いエリアの若者に対しのびのびしていたように見えるし、そもそも若者、案外しなやか。こちらが思う以上にできる範囲でのびのびやっていたのかもしれない。
何が正しかったのか、何がいけなかったのか?はいまだはっきりとは言えないことなのだと思う。
ただ一つ言えるのは、これを忘れないこと。
自分、本が好きでもちろんこの騒ぎに関する書籍も少なからず読み漁った。
それを、残していこうと思う。
およそ100年前のいわゆるスペイン風邪の時の、記録が少なくて苦労したと聞く。
少なくともそんな苦労のないように。
判断は未来に任せるとして、おそらくやってくる「次」にそんな苦労のないように。
※唐突にすみません。
タイトル、わけわかんないですよね。
現在発売中の「暮しの手帳」コロナ下の暮らしの記録に寄せ、採用されなかった文になります。
今読み返せば字数気にし過ぎて中途半端な感も。
それでも思いは込めたので、記録のため。
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