見出し画像

村上春樹の世界⑦騎士団長殺しー続

前回『騎士団長殺し』について感じるところを書いて、そのあと何か書き残しているという感じが残り、なぜか落ち着かなかった。今回はそのことだけを考えてみたい。

それは、「村上春樹が変わった」と書いたが何が変わったのか明確に書くところまで行かなかったことだ。

前回次のように書いた。ーーーーー「イデアである騎士団長が主人公に自分を殺せという時、こう語っている。ーーーー「・・・諸君は今ここで邪悪なる父を殺すのだ。・・・」主人公が騎士団長を殺すのを見て、雨田具彦は苦悩の表情を浮かべるが、その後苦痛から解き放たれるような表情を浮かべる。雨田具彦が解放されたかったのは、仲間が拷問され殺されていくのに、ひとり生き残った罪意識なのか、騎士団長が殺される時、雨田具彦が見たのは自分の死かもしれない。

その後、主人公は善悪の重さから解放される。この解放は、村上春樹がアメリカへ渡る前に、日本文学選集に『風の歌を聴け』と『1973年のピンボール』を載せることを出版社は計画し、ページ割り付け、宣伝パンフレットを作成してから村上春樹に打診し、この二作品は海外での翻訳も認めず自分の本格的作品と認めていなかった村上春樹は強く拒否する。尊敬する安岡章太郎や別の大手出版社の取締役の説得も拒否し、担当編集者が死を選ぶという事件の罪意識からの解放と重なって思える。

白いスバル・フォレスターの男と秋川まりえの絵を完成させないのは、その絵の中に主人公の罪を指摘できる人間の隠れた心の底を見る力を感じ、主人公は自分はまだそれに耐えれないと思っているからだろう。いつかは雨田具彦のようにそれに正面から向かうが・・・という思いである。

読み終えて感じるのは、やはり著者の村上春樹の変化である。そのひとつは初期の作品と似ていることである。短い引用で作品の表すものを強く表そうという著者の方法である。第1部のの最期のサムエル・ヴィレンベルクの『トレブレンカの反乱』の一説。ナチスドイツの強制収容所でドイツ兵やその家族の肖像画を描いている画家が、ガス室で殺された子どもたちの死体の山を描いて彼らに見せたいという一節の引用である。

また、親しくなった免色が語る南京虐殺のはなしである。そして第2部の最後の3.11の東北の地震と津波である。

この三つの話しに、生と死の世界あるいは時と空間に支配された現実とそうでない世界の両方を感じる主人公は、強く人間の善悪と安らぎの意味が自分自身の変化として、それまでと違っていくのを感じるのである。それがどういうものかは、読んだ一人一人が少しずつ違うかたちと触感で感じるだろうと思う。

しかし著者の村上春樹は、何か自分自身と世界との関係を明確にしたのだろうと思えてならない。それが彼の作品に対して良い影響を与えるか悪い影響を与えるかはわからないが、村上春樹というまもなく70才になろうとしているひとりの人間のことを考えると、わたしは良いも悪いもなく、避けれない道のように思える。そういう意味では、彼は最初の二作品『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』へ、そして『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』『ねじまき鳥クロニクル』を書いた経験で身につけたものをもって戻ってきたのかもしれない。あるいは、戻って行ったのかもしれない。

それは、作者は書き手自身のために書くというところまで。そして、わたしはそれは良いことだと思う。作者にとって良くない作品がほかの人間にとって良いことはないと思うから。

『騎士団長殺し』で作家としての村上春樹は、自分の存在する意味を感じるために書くところまで戻ることができたと感じる。良い意味でそう感じるのだ。

最後の章で主人公は父親が誰か医学的にははっきりしない娘のことを思いながら、自分の子どもだと確信してこう語る。「・・・私には信じる力が具わっているからだ。どのような狭くて暗い場所に入れられても、どのように荒ぶる曠野に身を置かれても、どこかに私を導いてくれるものがいると、私には率直に信じることができる・・・」これは作者自身の思いかもしれない。ーーーーー」

前回の文章を長々と引用したが、それで、そのことが村上春樹にとってどのような変化で、どのような影響を与えるかを考えるまで前回は余裕がなかった。あるいは考えが及ばなかった。

騎士団長殺し、そのものの意味は村上春樹にとって何だったのか?

そう問うといろいろな答えが返って来るだろう。先ず、次の二つは想像される。
①ナチスや旧日本軍、そしてイスラエルの壁に象徴される悪であり、そこには、自然界がもたらす津波も含まれる。すると、騎士団長殺しは、それらの悪に対して、たとえ敗北しても真正面から向かう生き方を選ぶ人間の選択する意志を表すことになる。
②もうひとつは、ナチスや旧日本軍の悪に反抗して死を選ぶことができなかった個人という人間のなかの欲望と弱さ、そこに潜む悪を、なんらかのの方法で処理する意志を表していると捉える見方である。すると、騎士団長は、個人という人間のなかの悪を象徴することになる。

私は①よりも②の印象が強い。ナチスに仲間を虐殺され、ひとり生き残った雨田具彦は自分への罰として、自分の中で生き残っていた自己を正当化する考えを騎士団長で表現し、その騎士団長を殺すことで安堵して死んでいく。また、具彦の弟である雨田継彦は、南京虐殺に加わり無抵抗の中国人の首斬りを行った自分を自殺することで罰したと考えることができる。

そう考えると、はっきりとした罪を犯した継彦への罰だけでなく、明らかな罪を犯したわけではないが、無意識のうちに弱さのために仲間を裏切って生きのびるという罪を犯した具彦の罪も罰せられるべきで、それが騎士団長殺しの意味ということになる。

また主人公の弱さの底にある罪、それは妹の死を受けとめることができず、そこに恐れを抱き狭所への恐怖で妹や他人の心に寄り添うことができないという罪もまた罪であるが故に罰っせられるか、何かで償わられなければならない。作品では、まりえを救うために騎士団長を殺し、異世界に入って恐れとたたかいながら、真っ暗な穴まで旅することで主人公はその償いをする。あるいは、実際には死ななかったが、具彦や継彦と同じように死をくぐりぬけたとも言える。

『1Q84』と『海辺のカフカ』で作者村上春樹が超えることができなかった、正義を行う時の罪、あるいは『アンダーグラウンド』と『約束された場所で』を書いて作者の疑問として残った、ひとは本当に良いものがたりを信じ、良い生き方ができるのかという問題への答えの糸口を村上春樹は見つけたのではないだろうか。さらには村上春樹が何度も語っているドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』のような小説を書きたいという願望へのひとつのきっかけとなるのではないだろうか。このことは、村上春樹のとっては大きい変化である。

また、そのことは村上春樹が現実をこれまで以上に直視し、人間の罪とそれへの向かい方を探し求めることになったと思う。つまり、彼のとらえる悲惨な現実とそこを生きるときの理想を書き始めたのではないだろうか。

この作品に対する評価がどうか、私は全く知らないし、文芸誌や評論も読んでいない。しかし、もし村上春樹がノーベル賞に近いとしたら、この作品で初めて近くなったと思う。あちこちにサービスで加えられているいつもの比喩は、私にはこの小説では邪魔に感じられるところもあるが、作品の本質的なところでは、生きるということを描くことが最もできているように思う。理想的な人間の姿勢を描こうとする作家を選ぶのがノーベル賞だから、そういう意味では、この作品で候補になるように思っている。同じ国から約四半世紀毎に受賞者が出るーー川端康成から大江健三郎まで、そして日系のイギリス人としてカズオ・イシグロまでーーという話しがあり、実際に受賞するかどうかは全くわからないが、村上春樹にとっては作品での人物描写において新しい視点を得ただろうと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?