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村上春樹の世界③良い物語


村上春樹の小説を読み終え、先に「村上春樹の世界について」を書いた。そのあと、わたしの喉や胸でむずむずするものが残った。それは、彼が使う「良い物語」という言葉である。対談や随筆でも、「悪い物語」に対抗するには「良い物語」が必要であると何度も語り、書いている。この時の「悪い物語」とは『アンダーグランド』で彼が感じたオーム真理教のもつ物語の強さであり、その悪のことである。彼は、それを受け入れ許容する噐がわたしたちーー悪い物語に影響を受けていない側ーーには必要だという。なぜなら、人類はそうした悪を半分もって生きているからだと。
村上春樹の世界についてもう一度書かなくては、と思ったのは、その「良い物語」とは村上春樹にとってどういう作品か、それが「良い物語」と判断されるのは何によってなされるのだろうと考えたからである。

そのことに入る前に、ちょっと気になったので全く関係がないと思われる小説を読んだ。多分比較されることもないだろう。
偶然、「風立ちぬ、いざ生きめやも」というヴァレリィの一行が思い浮かんだのだ。

それと同時に『ノルウェイの森』でサナトリウムに生活する直子と堀辰雄の『風立ちぬ』の節子が重なって感じられた。それでわたしは『風立ちぬ』を読んでみた。

サナトリウムに生活するヒロイン、その死と語り手の「僕」あるいは「私」との間のセックスのない恋愛、恋人の死のあと、どこにいるのだろうと言う『ノルウェイの森』の「僕」、すべてを失ったように感じる」風立ちぬ』の「私」ーーいろいろな物語に盛り込まれた逸話を除くと、その幹は同じように感じられる。

また、次のような文章は、村上春樹は自身の小説の書き方、登場人物が自然に動くのに任せて書くと言っているが、それと似ていないだろうか。「そういう私達についての物語は、生そのもののように、果てしがないように思われた。そうしてその物語はいつのまにかそれ自身の力でもって生きはじめ、私に構わず勝手に展開し出しながら、ともすればひとところに停滞しがちな私を其処に取り残したまま、その物語自身があたかもそういう結果を欲しでもするかのように、・・・」

堀辰雄の文章が、書かれた時代にはオシャレと思われただろうが、今読むと村上春樹が書いたと言ってもわからないのでは⁈と思った。

『ノルウェイの森』はリアリズムで書いたと作者は言っている。その前の『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』、『ダンス・ダンス・ダンス』、『ねじまき鳥クロニクル』そして『海辺のカフカ』、『1Q84』とその後はリアリズムから離れていく。なんと呼ぶべきか、ロマンティシズム⁈ 虚構という意味でのフィクション⁈しかし、村上春樹はそれらの作品に『良い物語』を書いているのだ。

彼の『良い物語』とは?考えながら、もしかすると、彼は現実の世界を描くことでは、あるいはリアリズムでは『良い物語』を書くことは難しいと感じているのではないだろうかと感じられてきた。すると、彼が『良い物語』の典型と考えているドストエフスキーのリアリズムまで彼はいつか戻るのかもしれない。ひとりの人物の中にひとつの世界、悪と正義の両方を描くことができるようになる時がその時かもしれない。あるいは、『ノルウェイの森』のリアリズムをさらに深める時かもしれないと考えている。

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