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村上春樹について②ーデタッチメントとコミットメント

村上春樹について少し書くために、長編短編小説を読み直し、エッセイをできるだけたくさん読んだ。村上春樹にとっての作品を書き発表することの感覚が、どこかでわたしの中でひとつにならず、また彼のカタロニアやエルサレムでのスピーチとその後の作品がどうしても繋がらないために村上春樹というひとりの人間、作家について意味のない不安を感じるところがあったので、その不安を自分なりに明らかにしたいと感じたからである。

これまでの彼の作家としての活動と彼の発言と彼の行動に統一したものがあるのか、作家としての「なぜ書くか」という理由はどこにあるのか、世界的文学賞を受賞する時のメッセージが何らかの重要性を感じて語っているのかと疑問を感じる曖昧さと浅さを感じさせるのはなぜか、また彼が「私たちはーーーしなければならない」「わたしはーーーーを大切に変わっていく時が来たと感じる」と語った後、そのような作品を書いているようにも、そのような活動を開始したとは思えないという不一致あるいは分裂した感じを与えるのはなぜか、それが気になった。前者は「核に対してノーと言うこと」であり、後者は「デタッチメントからコミットメントへの変化」である。

村上春樹は世界中で受け入れられている。彼はアメリカでの販売を個人で開拓したが、現在ではヨーロッパ、ロシア、中国そしてアジアでも出版する度に毎回売上ベストに入る人気をたもっている。

ひとつひとつの作品について考える文学論は彼については不要だろう。うまい、そして読者をその世界に引き込む力の強さは何も語らせないほどであることは誰もが認めることだ。ストーリーテラー、物語のエンターティンメント性で読者を惹きつけてきた。

多くの評論家、読者は彼の作品を読んで次のように語る。
①読者は国籍を問わず、自分の生活や思いが描かれていると感じる。作品の中で描かれる生活の食べ物、音楽、映画がアメリカのものなので、日本独自の文化を感じさせず、入り易い。

②30歳から書き始め、既に還暦を過ぎているのに、若者の心を描き、若者が違和感を感じずに読める。

③現実と幻想、記憶の世界が同じ時間、空間でひとつの繋がった世界として描かれている。このことで、彼の作品を読んだ評論家も読者もあたかも謎解きに誘われたように、彼の作品を比較して読むことに熱中する。

④物語りにクライマックスや最終的な結論がなく、作品の世界が継続しているまま作品が終わり、読者の想像の世界に物語りが残り続ける。

村上春樹が描く世界は人間にとって何なのか、現代の人間にとってどういう意味を持っていたと将来語られるだろうか、彼にとって書く意味、ひとりの作家として世界をどう見ているかという視線がどのように変わってきたのか、あるいは変わって来なかったのかを考えると、これらの彼の世界での高い評価は、その裏にひとつのマイナス面があることを示している。

それは、彼のエルサレムでのスピーチの「壁と卵」の比喩で語られた姿勢とは反対に、彼の作品が誰からも楽しまれるエンターティンメントとして書かれていることである。まるでスターウォーズやハリーポッターのように。また、コミットメントについて何度も書き、語りながら、『1Q84』とそのあとの作品まで、彼のテーマは孤独の寂しさと精神的に結びつけず肉体の結びつき、つまりセックスでしか結びつけない男女のロマンス物語である。『1Q84』では、10歳の時に手を握り合った男女が二十数年間その思いを持ち続け、一緒になる可能性を示唆して終わっているが、そこでも男女の精神的な結びつきが現実の世界で与える苦しみや喜びについては書かれていない。

彼の小説はこれまで全て(と思う)読み、今回読み残していたエッセイ集を読んだ。ひとつルールとして、読むために過去に買いためた村上春樹についての批評は開かない、読まないように本棚の下にしまった。

今、還暦を越えた私(友野雅志)は、20代に聴いていた音楽を聴き歌っている。若い頃には、人間は歳とるにつれて好みが変わり、私も演歌が最も好きになり、父親が好きな田端義夫を歌うようになるのかな?!と思っていたが、相変わらず、クラプトンを聴き、ボブマーレーを歌っている。好みが変わる人もいるのかもしれないが、そうでないこともある。

人間の感性や思いはそんなに年齢で変わらないのだろう。もちろん、恋人ができ、子供ができるとかは少し変化を与えるだろう。しかし、それよりも、戦争で家族と生活を失うとか虐待される、あるいは家族を殺される、生きる価値を感じられなくなる(これには、オームのような極端な教えにすがることも含む)ことの方が人間の内面に大きい変化を与える。

村上春樹も多分『風の歌を聴け』から『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』までの孤独感を持ち続け、『ノルウェイの森』から『ねじまき鳥クロニクル』までの男女の精神的つながりの欠如の痛みから積み上げてきた世界観、人生感が変わらないまま、『海辺のカフカ』『1Q84』その後の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』まで書き続けてきたのではないだろうか。

現実と幻想、記憶の世界が同じ時間、空間でひとつの繋がった世界として描かれている。このことで、彼の作品を読んだ評論家も読者もあたかも謎解きに誘われたように、彼の作品を比較して読むことに熱中する。また、その幻想の世界が、井戸の中や石の扉の向こうの過去の世界であることが示すように、全く社会から切り離された個人の孤独な幻想である。

このことにていて村上春樹はこう語っている。
「・・・・ただある種のドアを開けることができ、その中に入って、暗闇の中に身を置いて、また帰ってこられるという特殊な技術がたまたま具わっていたということだと思います。」
「・・・・僕は自分の小説の主人公を独立した、混じりけなく個人的な人間として描きたかったのです。・・・・」
ドアは他者の個人的世界へのドアであり、暗闇はその他者の暗闇である。このことは、国籍や言語に関係なく彼の作品が受け入れられる要因のひとつでもある。

世界の多くの人々が孤独な闇の中に生きていることで、彼の作品が描く孤独の寂しさに自分自身を見つけたのだろう。

また、その孤独な闇から出てきた主人公が闇を通過する前と変わらず生きていくところで物語は終わっている。それは今村上春樹には、人が変わるために何が必要か、世界を変えるために何が必要か、答えが見出せないということだろう。

世界は、ひとりひとりの個人に生きる問題にひとりで向かうことを当然のことにした。そして、そこに答えが見出せないのは国籍や言語に関係なく共通の問題である。その共通の問題を描く村上春樹の作品が世界で受け入れられるのは理解できる。

すると、「壁と卵」「デタッチメントからコミットメントへ」というのは、彼の望みか、その時の思いつきか、と考えざるを得ない。

彼の作品で「壁と卵」を描いているものはない。「コミットメント」を示しているものもない。

村上春樹は「自由になりたい、個人になりたいという思いが強くあり」と言っている。そのことはジャズの店を経営し、文壇から距離を置いてスタートした作家活動から理解できる。

しかし、『ノルウェイの森』の後、彼は卵でなく壁の側にいつしか立つようになったように思える。彼にとって大きい変化(そうは見えないが)と言われる河合隼雄との対談時、河合隼雄は中曽根康弘が設立を進めた文科省の国際日本文化研究センターの所長で、その後文化庁長官を務めた。その間を取り持ったのは岩波書店だという。また、『アンダーグラウンド』のインタビューには講談社が二人付き人をつけテープ起こしから校正を手伝ったという。この時点で村上春樹はすでに卵でなく、壁にもたれることができる立場にあったというべきだろう。

『1Q84』とその解説本の販売には複数の出版社が全力をあげた。業界の売上に貢献するベストセラー作家となっていたから、業界あげてバックアップし、解説本は同じような賞賛をする内容となった。すでに卵でなく壁の側にいたと考えるべきだろう。

すると、彼はエルサレムでその時の思いつきで「壁と卵」について話し、河合隼雄との対談以降「コミットメント」の重要性を語ってきたのも、対談の頃の思いつきではないだろうかと疑いを持たざるを得ない。何のために??彼のその後の作品がそれまでと変わらないことを考えると、ノーベル文学賞へのアピールではないかとまで思わせる。正直、文化庁長官という名誉職に就くことをしないように祈っている。

実は海外の書店の友人が村上春樹を絶賛した時に、私は否定的な返事をした。彼には今以上のテーマを発見するのは難しいと思うし、孤独の寂しさと精神的に結びつけない男女の寂しさがテーマではノーベル文学賞は難しいだろうと。その友人は聴く耳を持たなかった。村上春樹ファンはそうだろう。なぜなら、誰もが青年時代に感じるテーマ、そのまま一生抱えるかもしれないテーマを楽しく、安心して読めるエンターティンメント作品にして提供しているのが彼の作品だからである。

そういう意味では彼の作品はこれから今以上に多くの地域で読まれるだろう。もちろん、翻訳、発行が許可される地域に限られるが。しかし、時とともに拡がると思う。ひとの孤独は、時代とともに必ず鋭く、深くなっていくだろうから。

ただし、ある程度の中流レベルの生活ができる人々の間である。

中国内陸部の貧しい地域、国家から厳しい弾圧がなされているチベット等の地域、ギリシャ等の経済的問題が目の前にある地域、シリア、アフリカ等難民を多く出すしかない地域では、人々は「もっと重要な問題がある」と言うのではあるまいか。同時に、日本、アメリカ、中国、ヨーロッパの国々が政治的に、あるいは経済的な問題に向かわざるを得ない時には、彼らも同じように答えるのではないだろうか。

つまり、彼の作品の魅力は同時に彼の作品の限界となるように思える。

なぜなら、全世界で売れている彼の作品の読まれ方から、他の全世界で売れている商品と同じ感覚を覚えるところがあるからである。それは、マクドナルドであり、スターバックスであり、UNIQLO、ルイヴィトン、iPhone、任天堂のゲーム、ディズニーランドとそのキャラクター商品、ハーゲンダッツ、ミスタードーナツ、TOYOTAのプリウス、iPad、海外旅行等々。誰が食べても、誰が使っても、誰が着けても、誰が遊んでも楽しめ、同じような感想が語られる。国家が経済的にあるところまで成長した時、いわゆる中間層が欲しがるもの、あるいは手に入れて生活の中で喜びを感じるものを手に入れたら、同じ感想を語るのに似ている。ーーーーーおいしい、面白い、楽しい、便利、かっこいい、等々。

文学作品は本来、読者の過去、読者が生活する社会、読者の個人的経験、読者の欲望や人生の計画あるいは目標によって、ひとりひとりに違う衝撃を与えると思う。ある時は良い形で、ある時は悪い形で。

しかし、村上春樹の作品に対する読者の反応はほぼ同じような気がする。それは、読者の人生に対しての衝撃への反応でなく、村上春樹の作品のおもしろさや理解できない不思議さ、そして主人公が苦悩に投げ込まれるにしても、最後は無事にあるべきところに戻ってくる安堵感である。

現実の世界でこの安堵感が保証されない状態になると、この魅力は突然否定的感覚に変わるのではないだろうか。

この安堵感は世界中で消費され、購入される商品やサービスか与える満足感と充実感、快楽と喜びと似ている。それらは人生の意味や死についての考えや疑問を与えることはないだろう。それが、彼の作品がアジア、アメリカ、ヨーロッパ、ロシアで愛される理由の一つに思える。たとえ恋人や友人が死んでも主人公はあるべきところ、成長がどのようなものであれ、人生の次のステップへと進んでいる。

村上春樹の『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』が1979年から1982年に出版され、その後『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』、『ノルウェイの森』と1987年までに出版された。

1973年から1991年まで日本はバブルの経済的成長にあり、わたしたちは上にあげた商品やサービスだけでなく、「アメリカを買える」とまで経済的豊かさの価値を過大に評価した。投資、先物取引、株価の上昇による経済的な豊かさが何よりも重要視された。「三高」という言葉が当たり前のように良いこととして語られた。村上春樹の作品が日本で歴史的なベストセラーとなったのは、この期間である。日本に続いて経済的に成長した台湾、韓国、中国香港、上海、北京と村上春樹の作品はブームを巻き起こし、同時にアメリカ、ヨーロッパでもベストセラーにリストアップされるようになる。

また、1991年にソ連が崩壊し、その後ロシア、旧ソ連の東ヨーロッパでもベストセラーになる。

『ノルウェイの森』の1987年から『ねじまき鳥クロニクル』『海辺のカフカ』『1Q84』と2010年まで、世界中で村上春樹の作品は読まれ、その都度ニュースになる程読者に歓迎され、多くの村上春樹読者のグループができ、討論会が催され、村上春樹論が書かれた。

そこに見られるのは、村上春樹の作品を楽しむ人々の姿である。

村上春樹の作品から人生を考える姿ではない。アメリカのサイエンスフィクションあるいは恋愛映画を楽しむ心の状態に似ているように思う。

それらのことから次のように考える。
①わたしたちは村上春樹の作品を安堵感をもって楽しむ。
②それは、経済的に発展した国ではほぼ同じように起きている。

『ノルウェイの森』の「ワタナベ君」は、恋人の死後、恋人の友人「レイコさん」とセックスする。その後、もうひとりの恋人である「緑」へ電話をし、何処にいるのかわからないが、「世界中に君以外に求めるものは何もない」と言う。

『ねじまき鳥クロニクル』の「岡田トオル」は妻「クミコ」が拘置所から出てくるまで、家で待つ。いろいろな出来事は彼に何の変化を与えたのかはわからない。

『海辺のカフカ』の「カフカ」はいろいろな経験の後、「生きるということの意味がわからない」と言いながら、生き続ける。

『1Q84』の青豆と天吾は、幾つもの殺人と天吾の父親の死の後、一緒に生きていくことができるようになり、子どもの時の恋心を実現し、物語はハッピーエンドとなる。

このいろいろなエンターティンメントストーリー、青豆の必殺仕置人のような殺人、麻原彰晃を思わせるリーダーとその少女たちのセックス、『海辺のカフカ』の佐伯さんとのセックス、岡田トオルが聴くノモンハンでの皮剥ぎ、岡田トオルが経験する壁抜けと幻想と現実がひとつとなった世界、それらのアクション映画とサスペンス映画のようなストーリー、それらは人間はどのように生きていけるかという問題を無視した楽しみを与えてくれる。その後、全てが終わると、安堵が与えられる。

もし、これらの作品が人間にとって必要な作品として完成するには、続編を必要に感じる。

文学作品の主人公たちは作品の時間と出来事を通してその人間の内面を変えていく。また、その作品の著者も書くことを通して変わる。また読者も読むことを通して生きることの意味が変わる。それが現代のある条件の人々ーー生活が保証された人々ーーに対しては変化してきて、私たちは文学に私たちを変えることを期待しなくなったと考えるべきかもしれない。その代りにディズニーランドや映画のように楽しみを与えることを期待するようになったと。

村上春樹はその『雑文集』でこう書いている。「文学は人間存在の尊厳の核にあるものを希求してきた。」「あらゆる人間はこの生涯において何かひとつ、大事なものを探し求めているが、それを見つけることのできる人は多くない。そしてもし運良くそれが見つかったとしても、実際に見つけられたものは、多くの場合致命的に損なわれてしまっている。にもかかわらず、我々はそれを探し求め続けなくてはならない。そうしなければ生きている意味そのものがなくなってしまうから」「作家が物語を創り出し、その物語がフィードバックして、作家により深いコミットメントを要求する。そのようなプロセスを経過することにって作家は成長し、固有の物語をより深め、発展させていく可能性を手にする。ーーーーーーそのような希望がなかったなら、小説家であることの意味や喜びはいったいどこにるだろう?そして希望や喜びを持たない語り手が、我々を囲む厳しい寒さや飢えに対して、恐怖や絶望に対して、たき火の前でどうやって説得力を持ちうるだろう?」

この言葉は作品を書き続けることを「大事なもの」とする村上春樹の自分自身への語りかけだと、私は思う。ディズニーがディズニーランドを発展させることを「大事なもの」としたように。ウッディアレンが内容を変化させながら映画を製作し続けることを「大事なもの」としているように。

村上春樹にとっては、走り続けること、書き続けることが「大事なもの」で、それは彼にとって非常に個人的なものだろう。私たちにとって生きること自体が個人的なことになり、文学はその他の娯楽と同じように楽しみを与えることを期待されていると考えるべきかもしれない。

同時に、『海辺のカフカ』の佐伯さんがカフカに言うように、とにかく生き続けること、それが作者村上春樹が読者に伝えたいことかもしれない。

あるいは、村上春樹は各長編小説の続編を書くかもしれない。その時、作品へのコミットメントでなく、人間の問題そのものへのコミットメントを為すことになることを祈っている。

(2016.08.28)

2年前に読まれた方には申し訳ありません。誤字脱字以外全く手を加えなかった。

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