見出し画像

村上春樹の世界⑥騎士団長殺しーその1


村上春樹は何かを変えたく思っている、あるいは何かが彼のなかで変わって今回『騎士団長殺し』を書き、発表したと感じられてならない。そのことがもう一度村上春樹について考えようと思った理由である。

2017年2月25日に発売されたが、それまでの多分すべての作品を読んで、もう村上春樹の作品は読まなくてもいいかな、つまり、もう新しい変化はないだろうなと思っていたのである。

『騎士団長殺し』は130万部は売れたというが、さほど高い評価の批評は出てこず、海外でも騒がれなかったように思う。なぜだろう⁈ ただ内容や主人公と登場人物が華やかでなかったからではないのだろうか。しかし、それは作者の村上春樹が考え意識して行ったことだと思える。

この作品以前の作品への作者のむかいかたとこの作品への作者のむかいかたとは違うように思われる。それは小説作品の構成であり、作品を書いていった作者の方法の違い、何を目的に書こうと作者は思って、あるいは感じていたかという意思の違いだと思わせる。

ストーリーは、名前を書かれない主人公と、その別れつつある奥さん、まわりの人々、そして彼が知ってしまう雨田具彦の過去と具彦が残した絵、さらにはこの世界と違う異世界を生きるイデアと呼ばれるひとの思いや観念で現れる存在である。

簡単にストーリーを語ると、主人公は友人の親の家に住む。彼は奥さんから離婚したいといわれ、彼女は新しい恋人との間の子供を妊娠しているらしい。これまで色々な肖像画を描いて生活してきた主人公は、自分が描きたい絵を描き始める。主人公に関わってくるのは、先ず免色という、自身の子供かもしれない少女になんとか近づきたい男、彼からの依頼で彼の肖像画を描く、免色が自分の子どもだと思っているまりえという精神的に鋭い少女、主人公はまりえをその本質を描こうとデッサンする、そして重要なのは主人公が住んでいる家の持ち主、雨田具彦とその描いた絵である。具彦はナチスドイツがオーストリアを併合したころ反ナチスの学生グループに加わったが彼はゲシュタポの拷問を生き残って日本に戻ってくる。彼の恋人と仲間は拷問と収容所で殺されたが。そして彼の弟、継彦は南京への日本軍攻撃の時、捕虜の首を日本刀で切り殺すことを命じられ、恐怖を感じながら上手くできず、苦しむ中国人を見ながら吐いて日本軍の兵士たちに馬鹿にされながら、吐きながらころげて苦しむ。日本に帰った時、彼は自殺する。

雨田具彦は弟の継彦の死を知り、ナチス高官の暗殺を計画する学生グループに入るが、それは実行する前にゲシュタポに情報が漏れ全員逮捕される。ひとり生き残り日本に帰った具彦は洋画をやめ日本画に変わり、何年後かに主人公が屋根裏で見つけたのが『騎士団長殺し』という題の具彦の作品である。

騎士団長は、女遊びのひどいドンジョヴァンニに娘が騙されようとしているのを止めようとしてドンジョヴァンニに殺される。その後、石像になってドンジョヴァンニの前に現れ、ドンジョヴァンニを地獄へ連れていく。ーーーーそれがモーツァルトとモリエールのドンジョヴァンニである。

雨田具彦はドンジョヴァンニが騎士団長を殺す日本画を描いて屋根裏に隠していた。『騎士団長殺し』では、その騎士団長、つまり正義である象徴が、剣で殺されている。

その絵を発見したところから物語は始まる。

作品にはこれまでの作品を思い出させる引用が多い。著者のアイルランド旅行記と重なるシングルモルトウィスキーのはなし、たくさん現れる80年代ジャスとロック、そしてクラシック音楽。『ねじまき鳥のクロニクル』の井戸を思わせる穴。

しかし、これまでの作品と違うところがいくつかはっきりと見える。

主人公には名前は与えられていない。また語り手は、著者の村上春樹がそれまで色々な語り手を登場させ、いろいろな視点と感性で物語を描くことに努力してきたのに反して、主人公の「わたし」ひとりのかたりである。『1Q84』『海辺のカフカ』まで、インタヴューでも語り手を複数にすることの意味を語っていた著者が、この作品では「わたし」ひとりに語らせている。

次に、これまでの作品では、著者の感性のままに書いていたのが、この作品では全体の構成を前もってか後からかは知らないが、きちんと整え無駄なはみ出しが少ないことである。『色彩を持たない多崎しげると、彼の巡礼の年』では、あれ⁈ あの六本指はなんのためだったの?とか思うところが多かった。しかし、『騎士団長殺し』では、まりえの父親の新興宗教以外にはそういうところはない。作品の始まりから終わりまで構成がきちんとなされているのである。それがこの作品がさほど人気を集めなかった理由ではないかと思ってしまう。

最初から全体の構成と、登場人物、物語に現れるイデアと呼ばれる存在、主人公がとおるべき道、雨田具彦が背負わなければならない苦悩、それらが作者のなかでは明確になっていたように感じる。構成を明確に描いてから小説作品を書いたのではないにしても、全体の構成を書きながら考え悩み直しながら書いたのではないかと思えるのだ。それがこれまでの作品と『騎士団長殺し』の大きい違いのように思える。

これはわたしの推論だが、その原因は、著者である村上春樹の年齢がもたらした死が近いという感覚ではないだろうかとわたしは思う。村上春樹は、自分の死を受け入れることを考えながら書いていると思えたのだ。

それが村上春樹が変わったところのように思える。いたるところに過去の村上春樹の比喩のおもしろさや過去の作品を思い出させる引用があったとしても、この作品で村上春樹は自分自身を表現しているのではないだろうかと思う。

こういう読後感をもったのは、わたしが還暦をこえて死を感じる年齢になったことが影響しているかもしれない。しかしそれなら作者である村上春樹には、わたしが感じるより大きい死の予感があるのではないだろうかと思う。

イデアである騎士団長が主人公に自分を殺せという時、こう語っている。ーーーー「・・・諸君は今ここで邪悪なる父を殺すのだ。・・・」主人公が騎士団長を殺すのを見て、雨田具彦は苦悩の表情を浮かべるが、その後苦痛から解き放たれるような表情を浮かべる。雨田具彦が解放されたかったのは、仲間が拷問され殺されていくのに、ひとり生き残った罪意識なのか、騎士団長が殺される時、雨田具彦が見たのは自分の死かもしれない。

その後、主人公は善悪の重さから解放される。この解放は、村上春樹がアメリカへ渡る前に、日本文学選集に『風の歌を聴け』と『1973年のピンボール』を載せることを出版社は計画し、ページ割り付け、宣伝パンフレットを作成してから村上春樹に打診し、この二作品は海外での翻訳も認めず自分の本格的作品と認めていなかった村上春樹は強く拒否する。尊敬する安岡章太郎や別の大手出版社の取締役の説得も拒否し、担当編集者が死を選ぶという事件の罪意識からの解放と重なって思える。

白いスバル・フォレスターの男と秋川まりえの絵を完成させないのは、その絵の中に主人公の罪を指摘できる人間の隠れた心の底を見る力を感じ、主人公は自分はまだそれに耐えれないと思っているからだろう。いつかは雨田具彦のようにそれに正面から向かうが・・・という思いである。

読み終えて感じるのは、やはり著者の村上春樹の変化である。そのひとつは初期の作品と似ていることである。短い引用で作品の表すものを強く表そうという著者の方法である。第1部のの最期のサムエル・ヴィレンベルクの『トレブレンカの反乱』の一説。ナチスドイツの強制収容所でドイツ兵やその家族の肖像画を描いている画家が、ガス室で殺された子どもたちの死体の山を描いて彼らに見せたいという一節の引用である。

また、親しくなった免色が語る南京虐殺のはなしである。そして第2部の最後の3.11の東北の地震と津波である。

この三つの話しに、生と死の世界あるいは時と空間に支配された現実とそうでない世界の両方を感じる主人公は、強く人間の善悪と安らぎの意味が自分自身の変化として、それまでと違っていくのを感じるのである。それがどういうものかは、読んだ一人一人が少しずつ違うかたちと触感で感じるだろうと思う。

しかし著者の村上春樹は、何か自分自身と世界との関係を明確にしたのだろうと思えてならない。それが彼の作品に対して良い影響を与えるか悪い影響を与えるかはわからないが、村上春樹というまもなく70才になろうとしているひとりの人間のことを考えると、わたしは良いも悪いもなく、避けれない道のように思える。そういう意味では、彼は最初の二作品『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』へ、そして『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』『ねじまき鳥クロニクル』を書いた経験で身につけたものをもって戻ってきたのかもしれない。あるいは、戻って行ったのかもしれない。

それは、作者は書き手自身のために書くというところまで。そして、わたしはそれは良いことだと思う。作者にとって良くない作品がほかの人間にとって良いことはないと思うから。

『騎士団長殺し』で作家としての村上春樹は、自分の存在する意味を感じるために書くところまで戻ることができたと感じる。良い意味でそう感じるのだ。

最後の章で主人公は父親が誰か医学的にははっきりしない娘のことを思いながら、自分の子どもだと確信してこう語る。「・・・私には信じる力が具わっているからだ。どのような狭くて暗い場所に入れられても、どのように荒ぶる曠野に身を置かれても、どこかに私を導いてくれるものがいると、私には率直に信じることができる・・・」これは作者自身の思いかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?