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村上春樹の世界⑤書くことの意味

これまで村上春樹の小説から考えられることを書いてきた。今回はエッセイ、ノンフィクション、対談、ホームページでの読者とのやりとりから、考えてみようと思う。日本だけでなく世界で多くの読者をもつ作家、村上春樹が考えている「書くことの意味」についてである。

「小説家とは何か、と質問されたとき、僕はだいたいいつもこう答えることにしている、『小説家とは、多くを観察し、わずかにしか判断を観察を下さないことを生業とする人間です』と。」(村上春樹雑文集)
数頁あとにこうある。「我々(小説家)はその『自分とは何か?』という問いかけを、別の総合的なかたちに(つまり物語のかたちに)置き換えていくことを日常の仕事にしている。作業はきわめて自然に、本能的になされるので、問いそのものについてあえて考える必要もないし、考えてもほとんど何の役にも立たない→むしろ邪魔になる。」

同じ本の最後の方にこういう一節がある。
「僕の小説が語ろうとしていることは、ある程度簡単に要約できると思います。それは『あらゆる人間はこの生涯において何かひとつ、大事なものを探し求めているが
それを見つけることのできる人は多くない。そしてもし運良くそれが見つかったとしても、実際に見つけられたものは、多くの場合致命的に損なわれてしまっている?にもかかわらず、我々はそれを探し求め続けなくてはならない。そうしなければ生きている意味そのものがなくなってしまうから』ということです。」

ここから彼のエッセイに繋がるところを見つけていきたいと思う。

前者の発言は、村上春樹の小説の書き方について自身で語っていることをそのまま表している。彼は、登場人物がどのように行動するか、小説を書いていく中で自然に、あるいはその時その時の登場人物が何をしたいかに任せるように書いていくと何度も語っている。ストーリーを作者として前もって構成することなく、作品の頭からペンが流れるままに書いていくということである。

二つ目の「大事なものを探し求めているが
それを見つけることのできる人は多くない。そしてもし運良くそれが見つかったとしても、実際に見つけられたものは、多くの場合致命的に損なわれてしまっている」
この「損なわれている」という言葉も彼の作品で良く使われる。完璧でないというよりも、壊れている、汚れている、あるいはそのものの価値を失っているということだろう。

その上で、彼が語る善い物語の意味を考えると、「求めなさい。ほとんどの場合得られないし、手にしても価値はなくなっているが、求めることに意味があるのだから」ということになる。

『アンダーグラウンド』の後書きにこうある。麻原彰晃が弟子たちに与えた物語についてである。「与えられる物語は、ひとつの『記号』としての単純な物語で十分なのだ。戦争で兵士たちの受けとる勲章が純金製でなくてもいいのとおなじことだ。勲章はそれが〈勲章である〉という共同認識に支えられてさえいれば十分なのであり、安物のブリキでできていたってちっともかまわないのだ。」しかし、こちら側はどういう物語を持っているのか?この村上春樹の疑問への答えは誰も持っていないだろう。

その時、彼の作品が、自分の井戸を深く掘っていくと、深いそこで時間も空間も超えた他者に繋がるという村上春樹の考えは、心理学的に彼に救いになっている。本当に深く掘っていくとそうなるだろう。

その時は自分の弱さと罪も掘らなくてはならない。スイスでギャンブルをしつつ『カラマーゾフの兄弟』をドストエフスキーが書いたように。

『1Q84』の青豆や天吾、『海辺のカフカ』のカフカとカラス、ナカタさんの中の闇を掘ることを村上春樹はできたのだろうか。やはり、そこがすんなりと喉をとおらず、残ってしまう。『カラマーゾフの兄弟』を目標に書いていると至る所で書いているのだから、是非「村上春樹の素敵な主人公」でなく「村上春樹の闇をもった主人公」を書いてほしいと思っている。

(2017.06.04に別のSNSに書いたものですが、noteにはじめてアップします。)


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