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村上春樹の世界④良い物語とひとの悪

前回、次のように書いたーーーー村上春樹、彼の『良い物語』とは?考えながら、もしかすると、彼は現実の世界を描くことでは、あるいはリアリズムでは『良い物語』を書くことは難しいと感じているのではないだろうかと感じられてきた。すると、彼が『良い物語』の典型と考えているドストエフスキーのリアリズムまで彼はいつか戻るのかもしれない。ひとりの人物の中にひとつの世界、悪と正義の両方を描くことができるようになる時がその時かもしれない。あるいは、『ノルウェイの森』のリアリズムをさらに深める時かもしれないと考えているーーーー

村上春樹は率直な人である。随筆を読む限り、とても率直であり、また自分の思いを曲げることはしない。それだけ、物語を書くという自分の仕事に誠実だということだ。いろいろと書くのは、次回彼の随筆について書くときにしたいと思うが、いくつか例をあげよう。
ある出版社が日本文学全集を企画し、その題を「谷崎潤一郎から村上春樹まで」としたいので、『1973年のピンボール』を載せたいと言ってきた。彼は『1973年のピンボール』は日本文学全集に相応しくないと答えた。企画担当者は、長さが丁度良いし、「谷崎潤一郎から村上春樹まで」というチラシもすでに印刷済みと、なんとか村上春樹からイエスを引き出そうとするが、彼は拒否する。他の大手出版社の役員からも、今回は折れてほしいと連絡があり、彼の最初の二作品の受賞時の選考委員であった吉行淳之介からも、妥協してほしいと連絡があったが、彼は拒否した。
それは、この作品が海外で翻訳されるのを拒否しているのと同じ理由だろう。本当の小説になっていないという。
また自分は長編小説家である、その長編小説を書く上で締め切りという時間での限定を受けたくないというのは、彼の根幹にあり決して曲げない。
また、随筆では彼が経験した出版社の悪い面もはっきりと書いている。

これらは村上春樹の個人的な性格としてできあがっており、個人の責任は個人でとるが、そのかわり出版社から彼の書く行為について拘束されるのは拒否するという明確な意思表示である。

つまり村上春樹は、「良い物語」を書くことを小説の目的と決め、それは変わることがないと確信している。それと同時に、その物語を多くの読者に読んでもらうためには、エンターテイメント性が欠かせないという確信を持っている。
それで書かれたのが、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』、『ダンス・ダンス・ダンス』、『ねじまき鳥クロニクル』そして『海辺のカフカ』、『1Q84』と続く長編小説である。(残念ながらまだ『騎士団長殺し』は読んでない)
エンターテイメント性のために、また悪の世界を描くために、これらの長編小説は想像の世界での物語になっている。
わたしは、村上春樹はこれらの小説の主人公の中の悪を描ききったかという点が疑問に感じる。彼の目標とする「良い物語」を読者に届けるために。
例えば、『ねじまき鳥クロニクル』の主人公「僕」は井戸に入り、壁抜けをし異界へ行く。そこでバットで悪人である義理の兄を殺すのだが、「僕」の中の悪は描かれない。そのために、罪ない主人公と妻のクミコが悪と闘い、必要に迫られて悪を行うことになる。その構図は、『海辺のカフカ』、『1Q84』でも同じである。『海辺のカフカ』のナカタさんや少年カフカは悪を行うが、それは相手の悪と対抗するためで、二人は罪ない人間として描かれる。『1Q84』では青豆はDV男や、10歳の少女を強姦するコミューンのリーダーを殺害する。しかし、青豆は罪の意識はない。

このままでは作者の意図と違う物語を読者に与えることになるのではないかと危惧する。今のままでは古い勧善懲悪の物語になり、村上春樹が随筆でいろいろな形で書いている彼の目的ーー悪と深いところでつながっている人間を描くことーーがなされないままになるではないかという危惧である。悪と深いところでつながっている人間を描く時、カフカのなかに棲まう悪や青豆の中の悪もカフカの一部、青豆の一部として描かれる必要があるように思う。

もちろん次の見方もある。『ねじまき鳥クロニクル』の「僕」は井戸の底や夢の異界を通して、頰の青いあざといっしょに歴史的な悪を自分の身に受け入れたとも。また『海辺のカフカ』のカフカは母親に捨てられ父親に虐待されるという悪を自分のものとして持ってしまった。『1Q84』の青豆は幼児期、母親に宗教活動に連れて回らされたことで心に傷を受け、その傷は悪を受け入れるものとなったと。

村上春樹がオーム真理教について、私たちはそれらの悪も受け入れる必要があると語る時、それは上のことを意味しているのかもしれない。

しかし、主人公たちの悪を読者に見せることは、物語のエンターテイメント性をこわすので、どうしても主人公たちの悪は描かれず、悪は外部にあり、悪と接することで悪と同じ行動をとっているように思う。そこには『ノルウェイの森』の主人公の絶望が欠けているように思う。

私は、村上春樹はこれらの作品の続編を書くことになるのではないかと感じる。彼が考えることをそのまま進めて行くと、そうならざるを得ないように思う。

数年前に書いたがそのまま修正しないことにした。


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