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雑記:積みゲーを整理して、ゲームと向き合う。

だらけです。

積みゲーを整理しています。「買ったけど遊んでいないゲームを一つずつ遊ぶ」ではなく、「今持っているゲームを取捨選択して、遊ばないゲームを処分してゆく」ことを行っています(捨てているわけではありません)。いろいろと思うところがあるので、それをつらつらと書き残したいと思います。

時間も空間も限りがある

もともと整頓が苦手なこともあり、買ったゲームを整頓することはこれまで行ってきませんでした。幼いころから集められていたゲームソフト、ゲームハードが家にただただ増えてゆくばかりの日々とも言えます。

写真は懐かしの64DDの専用通信端末ランドネットセット。届けてくれた段ボールごとそのまま保管しています。これはもはや家宝と言っても差し支えないと思ってます。スーファミもあるし、ゲームキューブもある。増え続けるゲームは生活スペースを徐々に圧迫してきました。
さらに、気が付くと買ったけど遊んでいないゲームが年を経るごとに増えてきました。そこには、興味本位の軽い気持ちで買ってみたゲームもあるし、その時は遊びたくて仕方がなかったけれども遊ぶタイミングを失ってしまったゲームもあります。それ以外にも私自身が多忙になっていたことや、体調を崩してゲームを集中して遊ぶことが難しい時期もあったことなどもあります。
理由は多岐にわたりますが、それらが少しずつ重なり合った結果、今の自分の周りは、生活のクオリティを下げてしまうほど、また心理的なプレッシャーがかかるほど、ゲームを遊ぶための空間的・時間的な余裕がかなり少なくなってきたと感じたわけです。

何のためにゲームをするのか

そこからすぐにゲームの整理を始めたわけではありません。まず考えていたのは「どのゲームからプレイしていこうか」です。自分で持っているゲームをしっかりとプレイしたい、という気持ちがあるからです。
しかし、日々の中で上手く時間が取れずにゲームを遊ぶことができずにいる日々が続いてゆきました。そこで一度立ち止まり、考えてみました。


私は何のためにゲームをしているのだろうか?

私はゲームを遊ぶことが好きですし、これまでゲームを遊んでとても楽しい時間を過ごしてきました。そしてこれからも遊んでみたいゲームがまだあります。その事実はしっかり受け止めながら、今一度上記の問いを自分にします。一つ、思い当たる理由がありました。


ゲームを遊ぶのは、楽しい時間を過ごしたいから。

ゲームを遊ぶことで、自分が楽しくなり、それで自分が幸せになりたいからという理由が思いつきました。すなわち、自分の人生を幸せにしたいからゲームを遊んでいる、ということがわかってきました。
つまり私は自分の人生を幸せにするために、ゲームが必要だと考えていることだということがわかりました。私は自分の人生を幸せにしたい。その気持ちに気付くことができました。そのうえで、もう少し考えを巡らせてみました。

私の人生を幸せにするためには、どうすればいいのだろうか。

ゲームという話題に縛られることなく、自分の人生を幸せにするために何ができるのかという問いを改めて考えてみました。そうすると、他にもいろんなことが心に浮かんできました。仕事をしっかりしたい、誰かのために行動したい、健康でありたい、先の不安を少しでも減らしたい、よりよい社会を構成するために尽力したい、親しい人とたのしい時間を過ごしたい、おいしいごはんを食べ続けたい、などなど。自分の人生を幸せにしてくれるものが、ゲームのほかにもたくさんあることに改めて気づかされました。

人生を幸せにするものは、ゲームの他にもたくさんある。

とてもシンプルでありふれた考えなのかもしれませんが、私にとってはとても大切な発見でした。もう少し言葉を尽くすならば、ゲームは人生を幸せにするものだけれども、それはすべてではなく「私が考える幸せな人生」を構成する一要素であるということです。言い換えれば、自分の人生が主、ゲームが従の関係とでも言えるでしょうか。

大切にしてこそ、宝物になる

これまであらゆるゲームを購入してきました。自分自身か面白いと思ったもの、世間の評判が特に良いものなど、購入理由は様々ですが、そのどれもが大切なゲームだと思っています。
しかしゲームは実際に自分の手で遊ばなければ、その魅力を体験できないものです。まさに「宝の持ち腐れ」でしょう。そんな宝もゲームハードを引っ張り出して遊ぶ時間を作らなければ、その宝の価値すらわからないままです。
忙しさなどを言い訳にどんどん溜まってゆく積みゲーの山を見て、こう考えました。

このままではゲームに失礼ではないか?

遊んだ人を楽しませる為に生まれてきたゲームを遊ばないで、何年も塩漬けにしていることは、ゲームを作った人やゲームそのものにとても失礼なことではないかと強く感じました。
自分の限られた時間の中で、ゲームに費やせる時間はどれほどあるか。そしてその限られた時間の中でどんなゲーム体験をしたいのか。それらを慎重に考えた結果、今の自分では遊ぶ余裕がないもの(現行のゲームハードで遊べないもの、評判はいいが自分が求めるゲーム体験ではないもの)を一つずつ処分しています。
勿論、積みゲーが手元にある時に、時間はかかっても一つずつしっかりプレイしてゆく人も多いと思います。そのような人はとても誠実なのだと思います。そのような生き方を選ぶ人がいることに対する批判の気持ちは全くありません。これは生き方の問題です。私はゲームの研究者でもないし、ゲームをプレイすることで収入を得る人生も選択していません。私自身が自分の人生の形を考え、そして選択しただけの話です。
このまま私が所有し続けて遊べないままのゲームがあるよりも、他の誰かの手に渡ってその価値を見出してくれる方が、よっぽど有益なことではないか。そう心から思えるようになりました。

出会ったゲームを思い出にする

また私はこれから遊ぶゲームについてしっかり向き合うようにした事と同じように、今まで遊んだゲームについてもしっかり向き合うようにしました。「ゲームから大切なことを学んだ」と語る人も多いと感じていますが、私も改めてゲームの中で体験したことから学んだこと、感じたこと、考えたことに対して、今一度しっかり耳を澄ませてみようと思いました。これは今まで自分が歩んできた人生をしっかりと見つめ直して、整理すると言えるでしょう。
手始めに、今まで遊んできたゲームを整理整頓することからはじめました。その際に、これまで保管してきたゲームの箱なども整頓することにしました。

自分の心に大切にしまってあるゲームを、普段の生活でも楽しめることは出来ないか、と考えた結果がパッケージの箱を絵画のように額に入れて飾ること。見る度に思わずニヤけてしまいます。熱心にプレイした思い出が形になって残ったような気持ちになります。

手元にあったゲーム系のポスターも額に入れて飾ることにしました。生活の中にゲーム関係のものを取り入れることはあまり得意ではなかったのですが、こうして大切に整理をする事で、自分が好きな作品が自分の心の中でどれだけ輝いているのかを再確認出来たようで、とても嬉しいです。これから先も素敵なゲームに出会えるように、そしてその素敵なゲームをしっかりと楽しめるような素敵な自分であるように、そう願いながら考え歩いて生きてゆきたい、そう思います。

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たくさんのゲーム音楽演奏会に参加して、たくさんレポートを書いてゆく予定です。