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【10月4日「聖書の語りかけ」:ローマ人への手紙1章1節②】「呼ばれた者」

"キリスト・イエスのしもべ、神の福音のために選び出され、使徒として召されたパウロから。"1章1節

Paul, a bond-servant of Christ Jesus, called as an apostle, set apart for the gospel of God,(NASB)

パウロの第一の自己認識は「キリストの奴隷」であったが、それに次ぐ彼の自己認識は「呼ばれた者、召された者」だ。

そして彼は「呼ばれた結果」として使徒の職責を担った。ではいったい誰が彼を呼んだのだろうか。もちろん彼は自分で自分を呼んだのではない。言うまでもなく、それは主だ。

最近は、Googleマップなどのナビゲーションシステムを使わずに、どこか未知の場所を訪れるということがほとんどないだろう。このナビゲーションシステムが正しく機能するのは、衛星による電波情報が現在地を正確に特定するからだ。つまり「上からの情報」がナビゲーションシステムの鍵だ。

さて、ここで私たちが知るべきことは、私たちも、誰も自分で自分を任命して、主の御身体である教会に加わるのではなく、そこには何よりも上からのcallがあり、それに応じた結果、人はその召しに従う。それでパウロは使徒となったのである。だから彼は「自認する使徒」ではなく「神に召された使徒」なのだ。

召された結果、誰もが教師、伝道者、牧会者になるわけではない。各人がそれぞれの賜物を用いて与えられた役割に徹する。そこにあるのは上下や優劣ではなく「身体の中での機能の違い」だけだ。牧仕だろうと主婦であろうと学生だろうと、上からの召しに応じるなら、それは立派な働きだ。

しかし「上からの召し」の確認を無視して仕えようとすると、かえって教会に調和をもたらすのではなく、破壊をもたらすことになる。

多くの場合主は、日々読む「聖書の語りかけ」を通して、御心を示される。どんな時にも上からの御声を確認して進みたいと願ってやまない。

主なる神よ。私は自分で自分自身を確立する必要がないことを感謝します。私はあなたの召しと計画の中で、本当の私になるのです。

どうか主なる神よ、どんな時にも、自分の声や世の評価に踊らされるのではなく、あなたの声にだけ耳を傾けることができますように。
あなたの声を聞くことができるように、開かれた耳、開かれた目、開かれた心を私の内に作ってください。イエスの御名によって。アーメン。

文責 MJH石野博

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