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天賦典式と自己肯定感

天賦典式。

この世に生まれいったことこそ、おおいなる才能とする。

大駱駝艦、麿赤兒さんの言葉として、田村一行くんが紹介してくれた。



これ、保育の文脈で言うと「自己肯定感」の話?

究極的にはそうだけど、その道筋はむしろ正反対なんじゃないか。

自己肯定感というと、どうしても自己が先にたってしまう。字面からも。


天賦典式はまずこの自己、みずから、をある意味で捨てさせる。

田村一行くんは言う。

ばかになれ。

からっぽに。

動くのではなく、動かされるのだから。

お前はだれだ?

「〜歳で、どこどこ出身で・・」

いや、お前はだれだ?

「父親の職業は〜で、、」

お前は誰だ?

「どこの大学出て、〜の仕事していて、、」

お前は誰だ?


ふだん、ぼくらが生きているなかで身にまとう、あるいは身にまとってきたものを剥ぎ取っていく。


自分なんてなにもないんだ。

うまく踊ろうとするな。

最初に火を見た人はどんなふうに驚くと思う?いま、ここで、その火を見よ。


田村くんは言う。

踊りにうまいもへたもない。そこにいることですでにおどっている。

つまり、存在にうまいも下手もない。


自己肯定感という言葉の受取り。また個性偏重教育のなかの「個性」。

それはすべて「みずから」が重視される。

意図して、自分という個性をつくり、それがキャラに堕ち、特技になる。


おのずから。

どうしてもそうなってしまう自分。

どうしても生まれてきた自分。

もうすでに踊っている自分。

天賦典式。

子どもたちは踊っている。おのずから。

泣いても、食べても、座っても、歩いても。


麿さんも、田村くんも、保育者だなぁ。

ぼくも舞踏家でありたい。


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