まず、一歩。ひとりで。
私は保育者だ。
保育者とは、子どもの隣にいる人。
私はシンプルにそう考えていたし、今も基本的にはそう考えている。
ただ、保育者にとって「所属」というものがいかに重要な要素を占めるか。
身に沁みた春でもあった。
10年間勤めた園から、また新しい場へ。
〜の青山。あるいは、青山(〜)。
この〜にあたる所属園が、その前後に来る青山という名前の形容詞になる。場合によっては形容詞以上のものにもなる。
青山 < 〜。
時に、青山という固有名詞は、〜に含まれる存在として認識される。
だからこそ、この〜の変化に人は敏感だ。
私は私であって、昨日も今日も子どもの隣にいることは変わらないとしても。
それには、
人々が「保育者と〜」についてそう感じることについては、
いくつかの理由がある。と、私は思う。
まず、保育というものは一人ではできないものであること。
それゆえ園の文化というものが、子どもに発する一言、あるいは保育者の所作ひとつにおいても、色濃く反映されること。
次に、保育というものが日々子どもと暮らす中で、身体を溶け合わせるような関係性を築き上げ、その蓄積が「園」という場をつくりあげていくこと。
人と人との馴染み合いそのものが「園」をつくっていく。
園と人とが、〜と保育者とが、
渾然一体であるような状況が保育である、とも言える。
だから、ある人は保育者の〜が変わることに驚きを覚えるし、
ともに過ごした人たちにはさみしい思いをさせてしまうかもしれないし、
またある人は(これは実際に面と向かって言われたことだけれど)、
〜が変わるならもう応援しないというような発言をすることになる。
保育者と〜との渾然一体を考えると、
どの人のどんな反応も、私には至極もっともなことだと思う。
ただ、保育の現場に日々立っていると、またちがった感想も抱く。
園がどこだろうが、〜がなんだろうが、
子どもが子どもであることに変わりはない。
子どもが子どもとして生きているその現場に、寄り添うのが保育者なのではないだろうか。
大人側からすると、「保育」は〜によって変わる。
子ども側からすると、本来的には、その子がその子らしく生きる環境が必要なだけだ。
子どもにとって必要だから、〜ができていく。
〜が幼稚園だろうが、保育園だろうが、こども園だろうが、認証だろうが、森のようちえんだろうが、原っぱだろうが。
私は保育者。
昨日も今日も明日も、子どもの隣にいます。
そこが幼稚園だろうが、保育園だろうが、こども園だろうが、認証だろうが、森のようちえんだろうが、原っぱだろうが。
保育園でも原っぱでもいいのなら、
わざわざ保育者なんて言わなくてもいいじゃないか。
と言われればまあ、そうかもしれない。
よく耳にする、うちの園の保育は〜(すごいとか、いいとか、おもしろいとか)
正直今の私にはどうでもいい言説である。
そんな誇りは埃ほどにもどうでもいい。
そこを誇るということがどういうことを意味するのかを考え始めると、
私の小さな頭は混乱する。
でもあえて、
「保育者という名乗りをあげる」ことによって、
私は今日もまた子どもたちのほうへ近づいていきたい。
それは私の、私自身と世界へと向けた宣言でもある。
神の前にたつ一人の人間。
そう言ったのは誰だったか。
子どもの隣に座る、ひとりの人として。
いつもそこから保育は始まる。
(*今まで保育者をしていたときにお世話になった場や、方々への感謝は尽きない。前半部分で考察したとおり、今まで関わってきた場や人を通してこそ、私と保育との関係は育まれてきた。ここではそうした感情を横において、考察した。今は、まず一歩、一人で歩きだすために。)
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