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「子どもたちのミーティング」を出した頃01

「隔世の感」という言葉が浮かんできます。
いまや保育界ではサークルタイム、子どもたちの対話がちょっとしたブームになっています。
私が柴田愛子さんとりんごの木出版部から「子どもたちのミーティング」という本を出した頃からは、こんなことになるなんてまるで想像もつきませんでした。

同時に、すこし苦い思いも抱えています。
そもそも保育界のブームっていつもけっこう「しょうもない」なあと感じています。
ブームって仕掛け人がいて、メディアがのっかり、ありがたがってのっかる人たちがいるわけです。
ブームでいろいろ動くわけだから「いい側面もあるでしょー」と、何人かにはいつも言われます。
でもそもそもつくられていくブームの、その雰囲気がいつも苦手。
ひとつのブームがあると、メディアはそれを徹底的に消費して(それが遊び歌だったときもあるし、ドキュメンテーションだったときもあるし)、また次のブームにのっかっていく。

たしかにそれで保育実践が変わっていく側面もあるのかもしれません。
でも、それはほんとうに実践の継承とか発展と言えるのだろうか、と素朴に思ってしまうのです。なんだかとても根が浅い、対処療法的な、あるいは反射的な反応にしか思えないのです。

それでも、ブームがきっかけで、多くの人がそれに興味を持ち、少なからず実践でとりくみ、実践がより良く変わるのであればいいじゃないか。
おそらくブームのほうの理屈はこうでしょう。でもそれは臨床の理屈というよりも、政治と呼んだり、あるいは商売と呼んだりしたほうがいい理屈ではないでしょうか。

商売と政治はいつでも、まずはマスを相手にします。
一方、実践の発展とか継承はマスではなくて、けっこう個(それが保育者ひとりということもあるし、ある特定の時期の保育者集団といってもいいでしょう)のレベルで起こることのような気がします。
なぜかというと、保育実践の発展とか継承というものは、臨床の場での臨床知を伴うもので、臨床知には熟成とか発酵という言葉が似合うような時間との付き合い方があるからです。対処療法的な、反射的な反応とな真逆といってもいいかもしれません。

だから実践の継承とか発展というのは、いつでもむずかしい。私はそう感じます。優れた実践ほど一回性があり、その継承や発展もまた一回性から逃れられない。般化しにくい。

いま私が「子どもたちのミーティング」を出し頃のこと(もう10年以上も前になる)をここで振り返ろうと思ったのも、実践の継承とか発展というものの実際を紐解いてみたかったからです。私が挙げられるのは一例にしか過ぎませんが、なるべくその当時のことを正直に振り返って、実践の発展や継承が一回性の応答にしかないことを確かめてみたいのです。

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