見出し画像

間。見えないものを見る。

間。間が合う。

保育においては間はとても大切。

言葉がけなんていうけれど、実際はほぼ間を用いて関わっている。

では、舞踏家の人たちはどうやってお互いの間を合わせているのか。

大駱駝艦の田村一行くんに訊いてみた。



「カウントとるんじゃなくてね。1,2,3,4みたいなね。

それだと絶対合わない。

そうじゃなくて、イメージを共有する。

たとえば、からだを右左にゆっくりゆらす。とするよね?

そのとき、頭から木が生えている。とイメージしてみる。

とうぜんだけど、

生えている木の大きさによって、ゆれる速度がかわるわけ。

大きな木はゆったりゆれる。小さな木はゆさゆさゆれる。

そのイメージを共有する。

そんで揺れる。

そうすると、合う。合ってくる。ね。」


振り返れば、時に、保育者も同じようなことをしている。

保育者とは、子どもの見ているものを見る人のこと。

少なくとも、見ようと努めるひとのこと。

見ようとするとき、そこにも「間」がある。


いきなり近づいていって、正面に立って、

「どうしたの?なにしてるの?あそばないの?他のお友達はみんななにしてる?」

こうしたことは、問いかけに見せかけた要請であって、

そこに「間」はない。

子どもの余白を埋め尽くそうとする、おとなの教育欲があるだけ。


子どもの見ている風景を見る。

ただ、その風景をのぞきこむ前に、

子どものほうへ近づいていくという段階がある。


距離的な「間」があって、その間を図りながら、だんだん近づいていく。

子どもの息づかいが聴こえてくる。

息づかいのなかのお互いの「間」。

息づかいに息づかいで応えながら、だんだんと近づいていく。


一人の子が何を見ているか。

どの角度で。どの高さで。どの温度で。どの速度で。

(不思議だけれど、子どもの見ているものを見ていると視線にも温度や速度があるのだと思う)

その風景のなかには、

枝だとか、石ころだとか、ありんこだとか、いろいろあるわけだけれど、

そのモノが見えているというだけではない何か。

その風景の中にある「感じ」のまるごとすべて。

見えないけれど、たしかにそこに流れているもの。


保育者が、子どもの見ている風景を見るとき、

見えないものを見ている。

子どもの見ている風景を聴いている。







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?