「千の顔をもつ英雄」 ジョーゼフ・キャンベル著を読んでいます。

おはようございます。
「千の顔をもつ英雄」を読んでいます。
まだ冒頭の1章目ですが、
面白いので書きたいと思います。

序文でまずはシビレます。
「真実はひとつ。賢人はそれにたくさんの名前をつけて語る」
ほほー。
結局同じことを別の言葉で書かれてある本に出会うことがあったので、
言い当てたピッタリの表現だと思いました。

この本では、神話の力と、英雄の物語がいかに人間の前向きな人生に効果的な力を持つかを説明してくれています。

現代に生きる私たちが出会う、出口の見えない困難、
自分が大事にしたい中心的な価値観と周辺的な価値観の間での葛藤、その中で感じる分裂の感覚、
その結果として自分は一体何をしたいのか分からなくなる不安。
こういう時に、人を前向きに動かす象徴的なイメージと物語を含んだものが、
神話と儀礼の機能だったのです。
人は後ろ向きに空想することもできる。
でも困難に対して、一皮剥けた成長をしたい。
そう願う時に、神話は心の奥底から創造力を湧き上がらせ、刺激をくれる。
それが神話の力です。

自分の欲に溺れて、周りを混乱に巻き込み、最後には自滅するという一連の流れは、よくある話だと思います。
例えばクレタ島を支配したミノス大王の神話があります。
ミノス王は弟との王位の争いに勝つために、王位は神権により自分に下されるものだと主張し、その証として海から牡牛が与えられると主張しました。そしてその時にはその牡牛を供物として生贄に捧げて王位を受ける儀式をする、と祈祷文に書いて封印しました。
そのとおりに海神ポセイドンから牡牛が与えられます。
その牡牛は神々しく、それを見たミノス王は生贄用に別の牛をすり替えて捧げ、
ポセイドンから授かった牡牛を自分のものにしました。

ここに見られるメッセージとして、次のように書かれています。

ミノス王は神を欺きました。
王になるとは「もう一個人ではなくなる」ことを意味するにも関わらず、
ミノス王は、神を欺き、個人としての欲求や好みへのこだわりを取りました。
儀式というものが持つ機能として、
個人としての衣をぬぎ、神から与えられた王としての衣を着せられる機会だったはずなのに、そうならなかった、
いや、
エゴに負けてできなかったのです。
他の誰でもなく、自分の仕業によって、共同体全体、民衆と国といういわばチームメイトから、自分を切り離してしまったことになります。
すると何が起こるか。
王が利己心を生かしてしまったから、
民も互いに利己的に争うようになり、
その結果、力でしかまとめられなくなりました。

エゴを大きく膨らませた暴君は、
所有した全てのものと、
それらを相手も求め、奪うために攻撃してくるだろうという妄想から、
常に奪われることへの怯えに取り憑かれます。
そうなると、「暴君が手を尽くすところでは必ず涙が出る」ことになり、
どんなに王が良かれと思ってやったことも、
必ず対立や争いが生まれ、民衆が悲しむことになります。

この民衆を悲しみから救ってくれるのが英雄です。

「英雄とは、自らの力によって服従を達成する人である」
この一文にも痺れちゃいました。
何に対する服従なのか、それが問題です。
現代の私たちが自らの問いかけなければならない難問です。
それについてはこう書かれています。
社会の分裂、個々人のアイデンティティの分裂をどう解決するか。

「古き良き日に戻る方法(復古主義)や、(略)理想的な未来の実現を保証するプログラム(未来主義)では解決できず、
さらに壊れそうな部分を再び溶接するような、最も現実的で堅実な仕事によってもでさえ、解決できない。
(略)
新しいものを生み出すことだけが、死に打ち勝つことを可能にするのである、(略)
死の再現を無効にする「誕生の再現」(復活、転生)が絶えず起こる必要がある」

と書かれています。

そして、英雄の1番の仕事とは、
「虹的な意味しか持たない表舞台の世界から身を引いて、困難を生む精神(プシケ)の領域(実際に問題が巣食う領域)へもぐりこんで、そこで何が問題かをはっきりさせて自分自身の困難を解消し(略)、突き進むこと」

これもしびれますね。
まだ初めの40ページくらいですが、
痺れるくらいに感動する部分があるので、
読み進めるのが楽しみです。

それでは、続きは次回に書きます。

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