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哲学、ここだけの話(信仰と無宗教の間)

日本人の多くは、信仰を持たないと言われます。実際、学生に、自分の家がどの宗派に属しているかと尋ねても、答えられるのはほんの一部です。

他方、世間に出回っている宗教関連の本では、日本人と宗教の深い関わりが強調されています。いわく、墓参り、初詣、などなど。

これらの宗教的なイベントは、無宗教を自認する多くの日本人にとっても馴染み深いものであり、そういう意味では、まったく宗教と無縁というわけでもありません。

ただ多くの日本人に確実に言えるのは、宗教についての「知識」がまるでない、ということです。初詣に行っても、自分がどういう神社にいるのかすらも分かっていない。葬式で坊さんがお経をあげていることの意味を知る日本人は、とても珍しい(故人が成仏するためではありません)。仏教系の大学ですら、(仏教学の授業が必修であるにも関わらず)葬式という場に僧侶がいることの意味を誰も知らない。下手をすると、坊さん自身が知らない。

自分たちの伝統に深く根ざしている神道や仏教ですらこれですから、実のところ、キリスト教についてのまともな知識がある日本人は、(熱心なクリスチャン以外)ほぼいないと断言出来ます。

私は、欧米の文化を論じる授業では、必ずと言って良いほどキリスト教について説明する機会を持ちますが、たった一回の講義、つまり90分話すだけで、学生が「自分はキリスト教について何も知らなかった」と驚きます。たった90分で基本的なことは学べるのですが、日本では、そうした機会すらないということです。

私は、宗教学という講義を三十年以上担当しているので、キリスト教だけでなく、イスラムや仏教、神道についても、90分で話せと言われれば話すことができます。もちろん必要最低限のことしか話せませんが、学生が自分たちの無知に驚く程度には教えることができます。こんなことすらも知らなかったのか、と彼らは驚くのです。

宗教は、奥の深いモノですから、しっかりと学ぶのにはいくら時間があっても足りません。しかし、そんなことを言い訳にして、基本的な知識を教えないのは、教育の怠慢以外の何物でもありません。だからカルトにはまる人間が後を絶たないのですし、とんでもない宗教理解を平気で口にする政治家や評論家もいなくなりません。

「宗教なんて単なる気休めだ」と言う人は少なくありませんが、そういうことを口にする人は「気休め」というものの持つ意味を理解していません。「気休め」というと、どうしても意味が軽くなってしまいますが、心を落ち着かせる、不安を和らげるといった効果を意味するのだとすれば、気休めは、しばしば人の命を、人の人生を救います。宗教を軽く見る人のほとんどは、こうした宗教が持つ効果、意味を知らないのです。

それは、命を救う、人生を救うこともある。そういう効果を持つこと「もある」。この程度のことは、宗教を批判するにせよ、知っておく「べき」です。なぜなら、そんなことも知らずに批判しても、批判の体をなさないからです。宗教を信じてしまう人の心には届かないからです。

私は、宗教について教えますが、同時に宗教を強く批判もします。おそらく日本では、こうしたスタンスで宗教を教える教師は稀です。中立を装っているか、宗教は大切だというかのどちらかが普通だからです。しかしこういった教え方は、現実の日本社会を踏まえた場合、問題が多すぎます。宗教を信じることのメリットをしっかり教えておいて、それでもなおかつ、批判的に見る目を失わないことが求められているからです。何より、大学という場で、宗教を教えることの意味であるはずです。

宗教を教えているからと言って、何も宗教の肩を持つ必要はないのですが、多くの教員が、いつのまにか、ほとんどは無意識のうちに、宗教を肯定的に語ってしまうのです。




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