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哲学、ここだけの話(ヨーロッパを知る)

「ヨーロッパの歴史は、ヘレニズムとヘブライズムを源泉としている」とは、よく言われるのですが、じゃあ、その内実はどうなんだ、となると、答えられる人は多くはいません。

そもそも合理的思考の源であるヘレニズム(ギリシア思想)と神の恩寵を核とするヘブライズム(ユダヤ・キリスト教思想)は、水と油と言って良い関係にあります。つまりうまく混ざらない二つの原理が、ヨーロッパを形成しているのです。

私たちが,異文化である欧米を論じる際、こういった知識は最低限持っていないとまずいのですが(実際、欧米の学者にとって、こんなことは常識中の常識)、日本の大学ではまず教えられません。

なぜかというと、それぞれの思想の専門家が別だから。つまりヘレニズムの研究者はヘレニズムのことだけをやり,キリスト教の研究者はキリスト教のことだけをやる。その結果、両者についてそれなりに話ができる(=内容のある話ができる)学者は,非常に稀、ということになるのです。

私は、エックハルトという中世ヨーロッパのキリスト教神学者を研究していたので、どうしても両者についての最低限の知識を得なければなりませんでした。さらにドイツにいたとき、ヨーロッパの学者達が、今でもアリストテレスを現代の学者のように扱っているのを知って衝撃を受けたというのも大きい。「ヘレニズムとヘブライズム」という問題を考えないとまずいと思ったのは、こうした経験があるからです。

もちろん、こうした問題の考察は、研究の下準備に過ぎません。こんなことは知っていて当たり前のことであって、それをことさら研究という形にする必要はないはずなのです。とはいえ、上述したように、こうした知識は、日本の場合、学者の間ですら常識ではない。だから、私はアリストテレスとアウグスティヌスを扱った「自由を巡る二つの考え方」という論文を書いたのです(note では、「ヨーロッパにおける自由理解の源流」というタイトルになっています)。二十年以上も昔の話です。

ところが、この論文の意味が分かる学者は、私の周りにほとんどいませんでした。つまり本来なら常識として知っておくべき内容を、多くの学者は、意味なしと考えたのです(その内実をろくに知りもせずに)。結局、この論文はお蔵入りになり、私自身、世に出す意欲を完全に失ってしまいました。note にアップしている拙論に注などがついていないのは、発表する予定がなかったので、ちゃんと保存していなかったせいです。

学問には下準備が必要で、その下準備そのものは、それに携わる者であれば誰でもすでに行っているのが当たり前。欧米の学者であれば、拙論の内容は誰もが知っている常識なので、それを活字にする意味などないと思うはずです。しかし日本は欧米とは異なる歴史を歩んできているので、彼らの常識は私たちの常識ではない。だから、彼らの思想を知るためには、(彼らが論文になどする必要がないと考える)「彼らの常識」をまず習得しないといけない。

こうした作業は、それをしても脚光を浴びることはありません。しかしこの知識を持たずに欧米を語っても、少なくとも欧米人と対等に話をすることはできません。欧米文化の土台も知らずに、現代の欧米文化を語るという愚かしさが、「問題にすらされない」のが、この国の現状なのです。だから当然のこと、欧米の思想に真っ向から対峙できる学者が生まれない。研究して(受動的に)学ぶ、というスタンスが、この国の哲学の、どうしようもない限界なのです。

ともあれ、学者と呼ばれる人々ですら、こうした下準備を怠る国では、専門家ではない人々が、こうした下準備を大事に思うはずもありません。

それでも、まっとうに欧米を理解したいと思うのであれば、こうした作業は絶対に不可欠なはずです。問題は、本気でそれを理解したいと思う人間が、どれだけいるかってことなのです。

書籍化する事を考えると、可能性はほぼゼロなのですが、note に発表することならできるというわけで、これから少しずつ、こうした「絶対に必要な下準備」を言葉にして残していくことにします。note にアップしている「西洋思想史講義」というシリーズは、(実際に私が行っている講義なのですが)、こうした下準備の一部です。拙いものながら、日本の学問研究の基礎となればと思う次第です。

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