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ダークツーリズム

このページのタイトル写真は言うまでもなく、アウシュビッツの入り口に掲げられている「働ければ自由になる」という(実際には一度も実現されたことのない)標語です。

以前にも書いた通り、私はアウシュビッツを二度訪れているのですが、一回目の訪問(1996年)と二回目の訪問(2019年)は、二十年以上、間が空いています。その間に子供が生まれ、二回目は高校生になった彼を連れての訪問でした。

今から三十年ほど前になる一回目の訪問は、中学生の時の長崎原爆資料館を訪れた時と並んで、私の人生観を決定したと言っても良い。それほどのものでした。

その頃はまだダークツーリズムなどという言葉は存在せず、日本人でもアウシュビッツを訪れる人は非常に少なかったと思います。何しろ、その頃はポーランドに入国するのにビザが必要だったのです(若い人、ビザって分かります?)。

当時は、入館するのも簡単で、展示を見るのも、一つ一つをじっくり見れるほどの入館者数でした。日本にいた頃から何度も読んでいたアウシュビッツ関連書籍に掲載されている様々な展示写真が、生で目の前にある衝撃。

戦争だとか民族虐殺だとかを生で経験したことがない私でも、その片鱗をのぞき見ることが出来る展示は、今日の「ツーリズム」という言葉とは相容れないものに思えます。

子供の頃、私は夏休みの前半が嫌いでした。当時の子供は、誰もがテレビをよく見ていましたが、8月初めのテレビには、ほとんど一日中と言って良いくらい、原爆被害の報道があふれていたのです。そこでは、当たり前のように被爆者が登場し、その経験とともに身体に残るケロイド痕を見せていました。その傷跡は、子供心にも衝撃で、恐怖以外の何物でもありませんでした。

現代の平均的な若者で、被爆者のケロイドを見たことがある人は少なくなっているでしょう。実際に被爆した人や戦争経験者たちのトラウマとは比較になりませんが、当時の私が受けたのもトラウマと言って良い気がします。

トラウマは、よく心的外傷と訳されますが、一種の心の傷なので、受けないに越したことはないように思えます。実際の戦争や強制収容所のような経験は、絶対にしないに越したことはない。では、私が長崎やアウシュビッツで経験した「心の傷」はどうか。

世界保健機構が「心の健康」ということを強調するようになって久しいのですが、こうした心の傷は、心の健康を阻害するものなのか。もしそうなら、子供の視界にこうした現実を置くことは、悪でしょう。ここで問題となるのは、「心の健康」という言葉の意味でしょう。それは何を意味するのか。一切のトラウマから隔離された、まるっきり傷のない心なのか。

私はそうは思いません。

私は哲学者であり、一般と比較すれば、かなり理想論者に見えるでしょう。しかし私が考える理想は、傷のない心でもなければ、一切の争いがない社会でもありません。争いのない社会は、人々から争いに対処する免疫を奪います。病気のない社会は、新たな病原への免疫を人々から消失させます。子供を清潔すぎる環境に置くことは、大人になったときのことを考えていない親のすることです。

(ついでに言うと、私の授業は、文句をつけようと思えばいくらでもつけられるような「偏った」ものですが、それは、誰も文句がつけようがない(純粋無垢の??)議論を避けているからです。他方、私の学術論文は、「誰も文句がつけられない」ように書かれています。)

今年も8月がやってきましたが、被爆者の声は小さくなる一方です。式典をめぐる政治的なやり取りは大きく扱われますが、実際の原爆被害についての報道は皆無に近くなりつつある。深夜に流れる原爆を扱ったドキュメンタリーも、ほとんどが歴史の伝承を扱ったものになっています。それは、広島と長崎が「歴史」になりつつあるということでもあるのでしょう。そしてそれはアウシュビッツにも言える。

二回目のアウシュビッツ訪問は、オンラインでの予約が必要でした(予約なしでも入館できるようでしたが、入館までかなり待たされたはずです)。以前は閑静な場所に、いきなり例の門が現れるといった風だったのが、今では、その手前に大仰な入館ゲートがあり、そこで入館証と手荷物チェックが行われます。さらにその入館ゲートの前には、びっくりするくらい広い駐車場とバスターミナル。入館ゲートの前には、数百メートルにも及ぶ入館待ちの人々の列。

これが現在のアウシュビッツです。

入場者がものすごく増えたとは言え、場所が場所ですから、あちこちから大声が聞こえたりすることはありませんが、それでも、昔のような「怖いくらいの静寂」はありません。現在では、ガイド(確かポーランド語と英語のどちらか)に案内されての入場が基本ですので、自分のペースで見ることも難しい(私達は、案内人なしの早朝時間帯に入場)。

展示物が置かれている建物も改修されており、展示室はとてもきれいになっています。そもそも展示が、以前に比べ非常に「洗練された」ものになっている。もちろん収容者が寝ていたバラックの寝床などは当時のままでしたが、展示品が並ぶ展示館は昔の趣がほとんどなくなっていました。

こう書くと、いかにも「昔は良かった」という老人の繰り言に聞こえるかもしれません。ですが、実際にそこを初めて訪れた息子は、「行くまでは、最後まで見れるかどうか心配だったけど、それは杞憂だった」と言っていました。つまり想像していた以上の衝撃は受けなかったということでしょう。

さて、問題にしたいのは、受けるトラウマの問題です。現在の展示は、「時代に即した」ものなのかもしれません。世界の中でもとりわけドイツ人は、過去の歴史に敏感です(ナチスの過去があるので)。そうした歴史を忘れまいとベルリンのど真ん中に相当な面積のユダヤ人迫害を祈念する施設を作るくらいです。しかしそこもまた見事に洗練されている。過去を知らない人々にとって、過去を学ぶには良いかもしれませんが、そこを訪れてトラウマが残る人は少数でしょう。

事実、現代のドイツ(政府)は、ガザでの虐殺を虐殺と認めようとしませんし、イスラエル批判をする人々を弾圧すらしています。彼らは、歴史から何を学んだのでしょうか。「市井の人々の痛み」なのか、「政治的な歴史」なのか。現状を見れば,残念ながら答えは明らかです。イスラエルの肩を持つドイツの政治家は、もはやアウシュビッツの出来事が自らのトラウマとはなっていない。そう思わざるを得ない。

私は、世界がパワーポリティクスで動いているという事実は理解しています。しかしそのパワーの源は、やはり民主主義のはずです。もはや民衆の声など届かない、というのであれば、世界はもはや民主主義を放棄したということです。

一部のパワーが,以前に比べはるかに巨大化している現在、人々は、以前とは比較にならないくらい「社会に敏感」でなくてはいけない。そう、以前とは比較にならないくらい、人々は賢くならないといけない。つまり教育も、以前と同じものであってはいけない。

世界の民主主義が、従来のものとは異なるフェーズに入っているのなら、教育もまた新たなフェーズに対応しなくてはいけない。こうしたことを理解している政治家や評論家は、この国にほとんどいません。

ましてや上記のような「心の傷」の必要性を論じる世間は、この国に存在しません。

私は、人間は傷つくべきだと思っています。そしてそれは、「魂の問題」なのです。



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