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5%の人しか反応してくれなくても私がnoteを続ける理由

毎週日曜日にnoteを書き始めて4ヶ月。巻き込み事故で書くことになったマーケティング関連のものを入れると、記事も20本を超えました。

ダッシュボードによれば記事1本あたり平均400回ほど閲覧されているというのだが、更新をお知らせするFacebook投稿への「いいね」数は、多いときには50件を超えることもあるけれど、大体は20件前後。こんなにホームで戦っているのにコンバージョンレートでいうとせいぜい5%しかない。

こうした反応を私が気にしているか気にしていないかでいうと、やはり気にしている。多い回は単純に嬉しいし、反応が少ない回はスベった気分をひそかに味わっている。

そんな私の一喜一憂を知ってか知らずか、最近増えてきたのはFacebookでは一切反応ないのに「note読んでるよ」と言ってくる友人たち。

おまえだおまえ!

そんな友人や同僚たちは、「仲直りしてよかったですね」と声をかけてきたり、「おひとりさまバーやめたの?」「沖縄の彼氏とどうなの?」と単刀直入に興味のある話題に突っ込んで説明の手間を省いてくれたり、「ダイエット中だって聞いたから」とノンシュガーのカフェオレを差し入れてくれたり、お陰様で大変生きやすい世の中になってきていて最高なのだができれば日頃から反応してほしい。しかしそんなむっつり読者が100人はいると私は見ている。

むっつり読者の中には、「イタいやつだな」と半ば馬鹿にしながら読んでいる人もいるんだろうと卑屈な私なぞはそう思うわけであるが、ブログを始めてみたいと言いながら始められない人は、こうしたむっつり読者が怖くてなかなか始められないのではないだろうか。

「ああやって自分のこといろいろ書けるのすごいよね」「自分もやってみたいけどなかなかできない」ということを私もよく言われる。「そんな恥ずかしいこと私にはできない」と暗に言われているのだが、それなりにいい大人が書く文章がさすがにmixiの紹介文のように「存在するだけで恥ずかしい文章」になる可能性は低く、恥ずかしくなるとしたらそれはむっつり読者たちにスベらされた気持ちにさせられることだけなのである。

しかし考えてもみてほしい。

SNSでの反応もなく、会うこともなく、一生読んでくれていると知ることのできないかもしれない距離感の「疎遠になった」友人知人相手にスベって失うものなど何もない。むしろ自分が書いた1000字を超える文章を読んでもらえるとしたら、これは儲けものである。

つい最近、仕事で行った先で法学部の同級生に偶然再会し、その流れでその子の旦那(同じく同級生)を含めて先週飲んできたのだが、帰りに旦那の方が言っていた「俺らあと5回も会えば万々歳だよな」という言葉は印象的だった。

たしかに、家族でもない、職場やコミュニティが同じでもない、近所でもないのに、この先5回も会う友人は、実はかなり限られているのかもしれない。現にこの夫婦と会ったのは卒業以来で、このペースで会っていたらあと5回会う頃には60歳は優に超える。むしろ2000人いる私のFacebookの友人知人の中には、もう一生会うことのない人も絶対にいる。

そんな見えない友人たちに向けて一方的にこうやって書き続けることで、今後の人生で1回でも会う機会が増えたり、久しぶりに会ったときに互いの興味の合う話題から話を始めて時間を有効活用できたりするとしたら、出し惜しみをしている場合ではない。

というわけで、スベったり空回ったりするのはやっぱりちょっとは恥ずかしいのだけど、こんな調子でこれからも続けていきたいと思っています。

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今週金曜日(3月20日)はPORTOで一日店長しています。祝日なので、18時くらいから早めに開けようかと。むっつり読者のみんな、遊びにこいよ!

※食べ物ないのでおつまみ持ち込み大歓迎

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