期待値コントロールに縛られてる話
コンビニで買うおにぎりのレパートリーが2つか3つになったのはいつからだろうか。
基本はツナマヨか納豆巻き、気が向いたときにたらこに手を伸ばすくらいの日々で、鬼滅の刃おにぎりがどんなもんか気になったとしても決して買うことはない。
子どものときは新商品や期間限定にこそ心をときめかせ、コンビニで同じものを繰り返し買うことなんてほとんどなく、いつも同じようなものばかり選ぶ父親のことをつまらなく思っていたというのに。
でもツナマヨはいつだっておいしいし、納豆巻きもいつだって納豆巻き以上でも以下でもない。必ず期待に応えてくれる選択ばかりが増えていくのは、ちょっとした冒険がもたらしかねないガッカリ感を避けることで、心を平穏に保とうとしているからである。
Netflixで見る映画も期待はずれが怖くてなかなか選べないし、お腹の子どもについても経過は順調なものの、万が一のことを思うと無意識に楽しみに思う気持ちをセーブしてしている。
こんな話を先日PORTOのたくみくんとしたら、「余暇が少ないからじゃない?」と。
たしかに、アップダウンを受け入れて消化する余裕がいまないのかもしれない。おかげで比較的安定した精神状態(※自分比)を維持し続けることはできているものの、そんな平坦な日々を送ってる友人がいたら「それで人生楽しいか?」と心配になりそうである。私だ。
期待をかけることには期待を裏切られるリスクが伴う。でも期待を高めるためのちょっとした手間暇の助走期間をかける分、同じ体験からでも得られる喜びや満足感が高まれば、トータルでのプラス幅は大きいかもしれない。
なので今日は勇気を出して、下調べもして楽しみな気持ちを最大限高めて、夫の地元の沖縄コザが舞台の舞台を見に行ってきます。
わくわく。
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