フェミニストの「ミラーリング」はなぜ失敗してしまうのか
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フェミニストの「ミラーリング」はなぜ失敗してしまうのか

やまもとやま

 さて、表題の通りである。フェミニストによるミラーリングはなぜ失敗してしまうのか。正確には、「フェミニストがミラーリングとして繰り出すミラーリング」はなぜ的外れにならざるを得ないのか。これには明確な原因があり、またそれはフェミニズムの抱える根本的欺瞞に根差している。

 結論から先に書いてしまうと、「男性が搾取を実感しうる価値の在り方は女性のそれと決定的に異なるから」そして「男性への搾取を搾取として描写できるような人間はフェミニストではありえないから」である。

玉袋ゆたかは男性にまったく効いていない

 フェミニストによるミラーリングの例として、いま(2021.11.25時点)最も記憶に新しいのは畢(@amefuri_Ushi)氏によるキャラクター「玉袋ゆたか」であろう。

 (本稿を読んでいてそんな人はまずいないだろうが)ご存じでない読者のために流れをざっくり説明しておくと以下のとおりである。

・温泉地のPR企画「温泉むすめ」がフェミニスト活動家によって女性への性的搾取として非難対象にあげられる
・温泉むすめに否定的立場をとる作者が「性的描写の客体を男女逆にした形」として玉袋ゆたかを提示する
・男性側が嫌悪感を示すことはほぼなく、むしろ「かわいい」「大好物です!!!」「男の娘へのこだわりが無いとこれは描けない」など好意的に迎えられる。

 本件における男性側の反応について、フェミニスト女性からはただの強がりだとか、特殊性癖に造詣のある俺アピールに過ぎないといった勘繰りもあるかもしれない。しかし男性諸兄においては実感としておわかりであろう通り、睾丸や陰茎をいくら歪に誇張されたところで、男性が「被害」を感じることなど基本的にはない。はあ、そっすか、くらいのものである。
 同様の失敗は、Twitterをはじめweb上でそれこそ枚挙に暇がないほどに繰り返されている。なぜ彼女らはこうも的を外してしまうのだろうか。

「何」をミラーリングすべきなのか

 わかりきっていることだが、ブラジャーを纏った巨大な睾丸、ブリーフからまろび出んばかりのご立派な陰茎などという表現は、温泉むすめその他の女性を題材にした表現へのミラーにはならない。他に挙げられることがある広い肩幅、むちむちと隆起した肉叢(ししむら)なども同様である。
 いかにフェミニスト側が「身体性を不自然に誇張し消費される嫌悪感に対して抗議してるんだ!」などと強弁したところで、そんなもので男性は当事者としての被害感を共有などできないのだから意味がない。作者が注いだ技量と悪意の多寡によらず、男はノーダメージである。
 なぜなら、一般的事実として男が女に期待され、差し出している「性的らしさ」はそんな所にないからだ。

 女性は人口の再生産を担い、身体的魅力と若さを希求される性だ。多くの女性はその身体を性的にまなざされ、ひいては母胎として提供することを求められる。
 先だって一大バズを形成した漫画「アッコちゃんは世界一」においても、男性嫌いの女性であるナスが「大きなお目目、すらっと長い色白の手足、大きなお胸」を指して「男ならきっと自分のモノにしたいと思うもの」と述べている。若く健康で魅力的な肉体を持ち、男をその身に受け入れること。それが女性が社会の一員として供出を求められる「女らしさ」であり、温泉むすめはそのカリカチュアの一例と捉えることができる (もちろん、そんな文脈に関係なく同様の表現を好む女性が普通に存在することは承知している)。
 
 「フェミニストは背後にオタクの姿が透けて見える表現を燃やす」と言われるのはここに一因がある。女らしさの表象を男(特に本来なら女性の承認を得られるはずもないキモ=オス )が勝手に複製・誇張し「むひょひょwwwえっちだねえwwww」などと欲望を発露させていやがることを、彼女たちは現実における性犯罪や自身へのまなざしとリンクとさせ嫌悪するのだ。消費されているのは貴女ではないですよ、などという理屈は通じない。
 「ある性の依って立つべき価値を、当事者のコントロールから外れたところで異性が娯楽として消費していること」が嫌悪感の根源であると仮定して本稿では話を進めよう。

 ならば女性に都合の良い男性像のカリカチュア=見た目がよく、社会的地位があり、女性である自分を無条件にいい気分にさせてくれる王子様であれば温泉むすめのミラーとして適切なのだろうか。
 まったくの間違いではないが本質でもない。イケメン俳優の広告やシンデレラストーリーのドラマは今日の日本社会に飽和しているが、そこに搾取を見出し本気で抗議する男性は稀だろう。イケメン・ハイスぺ・高身長といった属性は女性が男性を比較選好する際の指標ではあっても、男性一般が女性と社会に差し出しているものではないからだ。

 ミラーリングを成功させるには、上述の女らしさに対応する、男性一般が差し出している「男らしさ」とは何かをまず理解する必要がある。それを明らかにすれば、フェミニストの「意図的な」ミラーリングが的外れなものばかりにならざるを得ない理由も見えてくる。

生命を搾取される性

 前置きが長くなったが、本題に入ろう。
 折しも11月19日は国際男性デーであり、それに先立って下のようなツイートがある出版社から出されていた。

 「男も男らしさから降りていい」というこの一見優し気な主張は、フェミニズムおよびその派生学問と言える男性学に頻出のものである。ここに挙げられている「権利」は、実社会において男性が求められる、降りるに降りられない「らしさ」の形を逆説的に明らかにしている。

 端的に言って、男とは共同体のために体を張り、強さを示し、何かを成し遂げ、もって社会と女に承認されることを宿命とされてきた性である。
 アンチフェミニストやマスキュリストにとっては耳タコの話であるが、戦争による死が遠ざかり、かつてより遥かに安全になった現代においてなお男性は女性と比較にならないほどに身体を危険に晒し、破産のリスクを負い、そして実際に死んでいる。男性の自殺者は女性の約2倍、過労死者の数は(就業者の男女比を補正して)約14倍、ホームレスの数に至っては約33倍である。

 かくも男女の侵すリスクに差が出るのは肉体の頑健さに基づく合理性だけが原因ではない。まして一部フェミニストが主張するような「女を差別するための経費」などというものでもない。働き、決断し、戦い、時に死ぬこと。そしてその恩恵を女に捧げることが、女の「性的価値」とバランスする「男らしさ」だからである。「男も男らしさから降りていい」と尤もらしく宣う人々が、しかし実際に降りた男を包摂することは決してない。

 上記を踏まえた上で、次の写真をみてほしい。

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 太平洋戦争終戦後の日本、アメリカの海兵に連れられて歩く日本人の女性(所謂パンパンだろうか)と、戦争で右足を失い物乞いをする傷痍軍人の姿である。
 旧い写真なうえに一瞬を切り取ったものではあるが、海兵は一応は物乞いに視線を遣り、ばつの悪そうな表情をしているように見える。一方で、女性達は一瞥すらくれていない。男性諸氏は身につまされるものがあるのではないだろうか。まったくの無感情でいられる人は多くないだろう。
 戦争に征く男のほとんどは戦争が好きで仕方なくて征くのではない。女子供のために戦うのが男の役目という常識を内面化され、その価値観に則して定められた制度のもとで、女を含む社会のまなざしに背を押されて征くのだ。結果として身体の一部を失った者への報いがこれである。
 投げうった身体と生命を一顧だにされず、守るはずであった女たちは他国の男に媚びている。勝利できなかった男達の責任を差し引いてなお、筆者はこの光景に男らしさの搾取を見出さずにはいられない。男に「効く」搾取とは性器を巨大化して描くことではない。男の戦いを、挺身を、頑張りを、無価値と断じて踏み躙ることである。

 上ではあえて感傷的な物言いをしたが、世間で男らしさの搾取は実にカジュアルに繰り返されている。
 主婦が外で働く夫を「お気楽」と評し、家事や育児に同等の役割を果たさないことを害悪とまで罵ること。男からの恋愛アプローチや、時には人命救助の仕方をさえ一方的に採点し、女にとってストレスのない脱臭された男らしさを要求すること。
 そうした表現がネット・現実を問わずそれこそ無限回生産され、しばしば女性の喝采を浴びるのは、その内容が真理を突いているからではない。それらが受動する性である女のための、能動する性である男を題材にしたお手軽なポルノだからである。

 ある性別が一方的に搾取する側であることなどあり得ない。「頂き女子」など極端で悪辣な例を採るまでもなく、女が男の甲斐性や庇護欲をハックし、そのアガリだけを受け取りながら他の男に股を開くなどというのは恋愛において当たり前にある光景だ。男女は互いに搾取する隙を伺いあっていると言ってもいい。

 さて、ここまで語ったところでいま一度タイトルに立ち返ろう。

フェミニストはミラーリングができない?

 前述の通り、ジェンダーロールに関連して男を不快にする表現は普通に存在するし、それに対し男は普通に非難をするのだが、ミラーリングをしたくてしたくて仕方のないフェミニストがそれらを「女体の表現」と対になる男への加害として例示することは決してない。

 フェミニズムはジェンダーに纏わるあらゆる問題を「男による支配」に帰責する思想である。男は家父長制を通じて女を隷属させ、主体性を奪い、その身体と尊厳を一方的に搾取できる体制を必死に維持しようとしている、女は常に被搾取者というのがフェミニズムの基本的な世界観だ。
 女もまた男らしさの恩恵に浴している、男女それぞれの「つらさ」が両性の共犯関係により形作られているなどということを、フェミニストは決して認めない。社会は男が動かしているのだから、戦争や労災で男がいくら死のうが男の責任、それに巻き込まれる女こそが犠牲者というのがフェミニストの揺るがぬ信念だ。

 なぜフェミニストは「女性の性的消費」をミラーリングをしようとして毎度失敗するのか、結論を述べよう。 
 現実に存在する男性ジェンダーの搾取を搾取として描写することは、フェミニズムの世界観そのものを否定する行為だからである。そんなものは「無い」ことになっているのだから、効きもしないミラーをむりくり作出するしかない。ご立派フグリ男の娘なる存在は、男を嫌な気持ちにさせたいという情熱と、フェミニズムの教義による板挟みの産物なのである。

 フェミニストはミラーリングができないのではない。ただ「それ」を、女性を解放するための正当な主張としか認識していないだけだ。かような思想が男女平等のための思想を名乗っているのだと、真顔になったところで本稿を終えようと思う。世に善き男女の共栄があらんことを。 

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